長与千種 母と4年ぶり再会をきっかけに引きこもり生活から脱出

2020年12月30日 07時00分

中2の時に友人(左)と。笑顔は少なくなり、学校へも行かないようになった(本人提供)
中2の時に友人(左)と。笑顔は少なくなり、学校へも行かないようになった(本人提供)

【長与千種・レジェンドの告白(3)】中2の冬に父が大村に帰ってきて一緒に住むことになった。小さな家を借りて、父娘2人での生活が始まった。しかし引きこもりになっていた私は、何も変わることはなかった。住み始めて最初の夜に父が作ってくれたすき焼きを「こんなもん食えるか!」ってテーブルごと引っくり返したぐらいだった。「どうして今まで私のこと放ってこれたの?」という気持ちでいっぱいだった。

 父なりの考えがあったのだろう。突然「大阪に行こう」と飛行機のチケットを渡された。母に会おうというのだ。4年ぶりの再会だ。まず最初に父と母のアパートを訪れた私は、建物を見た瞬間、言いようのない感情で胸がいっぱいになった。あんなにきらびやかに働いて周囲から「ママ」と呼ばれていた母は、とても小さな、おそらくは4畳半程度であろうアパートに住んでいたのだ。

 その後、働いている店を父と訪れた。つつましいバーで母は客に頭を下げている。私は声も出ない。何も聞かされていなかったらしく、母はとても驚いていたが、娘の突然の訪問をよろこんでくれた。仕事が終わった後、3人で焼き肉を食べに行った。一緒に食事なんていつ以来だろうか。胸がいっぱいだった私に父と母は、こんな主旨の話をした。

「お前には本当に申し訳のないことをした。また家族全員で一緒に生活できるためにはどうしたらいいのか、それを必死になって考える。本当にすまなかった」

 その時、すべてが変わった。「私、何やってるんだろう?」と我に返ったのだ。父と母がここまで必死に働いているのに、自分の現状はどうだ。殻に閉じこもったままだけじゃないか。そんな思いが体を貫いた。

 自分から変わらなきゃいけない。大村に戻った私は父に言った。「もう私、大丈夫だから。元のように働きに戻ってもいいよ」。そうして父の妹夫婦の家に預けられた。ここで私はようやく「家族の一員」として優しい扱いを受けることになる。母とは10歳ほど離れていた叔母さんを「姉さん」って呼んでいたほどだった。ちょうど年子が生まれた時だったので、一緒にあやしたり、料理を手伝ったりもした。帰る場所がやっとできたという気持ちだった。

 そして中2の時に学校にソフトボール部が創設されたことが大きかった。私はキャッチャーで4番(時々ファースト)。できたばかりの部なので、サッカー部とグラウンドを奪い合ったり、試合も市の中体連がせいぜいだったけど、ここで得た友人は今でも貴重な財産だ。学校に行かない時期にも、ソフトの練習だけはちゃんと通ってた。それも今考えればおかしな話だけど(笑い)。空手とソフトがなければ、本当にどうなっていたか分からない。

 中3になると私は休まずに学校へ通うようになる。女性の担当の先生に恵まれたからだ。すべての事態が突然、好転し始めた。

 それでも私に高校進学という選択肢はなかった。

(構成・平塚雅人)

☆ながよ・ちぐさ=本名同じ。1964年12月8日、長崎・大村市出身。80年8月8日、全日本女子田園コロシアム大会の大森ゆかり戦でデビュー。83年からライオネス飛鳥とのクラッシュギャルズで空前の女子プロブームを起こす。89年5月引退。93年に復帰し95年にガイア・ジャパン旗揚げ。2005年に解散して再引退。数試合を経て14年に再復帰しマーベラス旗揚げ。15年に大仁田厚と東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」最優秀タッグ賞受賞。20年に北斗晶らと女子プロ新組織「アッセンブル」を旗揚げ。

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