松永光弘 大日本で闘志再燃「建築現場デスマッチ」

2020年12月13日 10時00分

【写真上】リングに足場を設営【写真下】リング上3メートルの足場から山川にダイブした松永

【ミスター・デンジャー松永光弘 この試合はヤバかった】FMWのリングでは思うようにならず、心身ともにダメージを負った松永光弘氏。そのやる気に再び火がついたのは後楽園ホールで行われた大日本プロレスの“建築現場デスマッチ”だった。

【1996年7月19日 松永光弘、中牧昭二VSケンドー・ナガサキ、山川征二(のち竜司)】

 FMWでは、自由に試合ができず人気もガタ落ち。そしてそのストレスが3年でピークに達し、胃潰瘍になりました。体重が10キロ減り、1996年5月にFMWを退団。もうプロレスを続ける気力がなくなり、ステーキ店で働いていました。

 そのステーキ店に大日本プロレスの中牧さんからたびたび電話があり、大日本への参戦を打診してきました。当初は興味がなかったものの、大日本に熊が来ることになり、熊との対戦に興味を持った私は交渉のテーブルにつきました。

 しかし熊は動物愛護協会の圧力で来ることができなくなり、再び興味はなくなりましたが、それでも参戦を熱望され、私は当時の登坂部長(現社長)に参戦の条件を出しました。

「リング上に後楽園ホールのバルコニーと同じ高さの足場を作ってほしい」

 私はそのように伝えましたが、心の中では、無理だと思っていました。

 その時、登坂部長は営業で北海道を回っていて、しかも後楽園ホールまでの日程が1か月を切っていたのですが、意外にも登坂部長の対応が早かったのです。北海道から建築足場の業者に電話して段取りを済ませました。設備費は約30万円。

 ですが、試合形式が決定して発表したものの、前売りチケットがほとんど売れません。私はW☆ING時代につくった人気や集客力の“貯金”を、その後のFMWでの3年間で完全に使い果たしてしまっていました。

 私は小鹿社長(当時)に尋ねました。「前売り、そこまで売れませんか?」「売れんな~」「何だか申し訳ないですね」「誰が悪いわけでもないさ。頑張るしかないよ」

 ところが、試合当日、メインが近づくにつれて、それなりにお客さんが入ってきたのです。

 私は試合の最後に、山川選手目掛けて、建築現場の一番上から飛びました。そのままカバーして3カウント。すかさずマイクを持ち「ナガサキ、ピラニアデスマッチで勝負してやる」。館内は大ピラニアコール。私は「何だかW☆INGみたいだ」と思いました。

 引き揚げる通路にはミスター・ポーゴさんがいて、少しほほ笑んでいました。そしてビクター・キニョネスが目に涙を浮かべていました。みんなバルコニーダイブを思い出していました。「懐かしい」。そこへ小鹿社長が来ました。

「おい!! 当日500人来たぞ!」

 この500人という数字は当時のプロレス界にとって大した数字ではなかったかもしれませんが、最底辺の団体だった大日本プロレスにとって、その後への大きな弾みになったことは確かです。

 ☆まつなが・みつひろ 1966年3月24日生まれ。89年10月6日にFMWのリングでプロレスデビュー。数々のデスマッチで伝説を作り、2009年12月23日に引退試合。現在は現役時代に開店した人気ステーキハウス「ミスターデンジャー」(東京・墨田区立花)で元気に営業中。

関連タグ: