【ミスター・デンジャー松永光弘 この試合はヤバかった】大仁田厚との大一番(ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ)を終え、派手な舞台からしばし遠ざかった松永光弘氏だったが、うっ積した思いをぶつけたのが大阪城ホールでのストリートファイトデスマッチだった。

【1994年8月28日 松永光弘VSミスター・ポーゴ】

 FMWへ移籍して約1年。見せ場があったのは晴海ドーム(1993年12月8日)までで、すっかりサラリーマンレスラーに落ちていました。

 ファイトマネーはいいものの、自由にできることは何もなく、前座の第1試合に出る時もたびたびありました。

 そしてその間に台頭してきたIWAジャパンのデスマッチを見てうらやましく思ったりしていました。IWAジャパンで行われたデスマッチには、私がW☆ING時代に考案したデスマッチもありましたが、先にやられてしまいました。

 FMWの場合、大仁田さんより目立つことをしない限り、何をしていても怒られることはありませんでしたから、サンボ浅子さんと「なまくらコンビ」を結成して、いかに楽な試合をして稼ぐかを楽しんだりもしていましたが、やはり見せ場のないストレスがたまってきます。

 FMWを辞めようかと考えることもたびたびありましたが、もう結婚もしていましたし、高額のファイトマネーは惜しいので辞められませんでした。

 そんなころ、IWAジャパンから私に接触(引き抜き)があり、FMWでの給料明細を見せたところ、すぐに諦めましたが、そのIWAと接触した情報がFMWに入り、「あまり締めつけず、少しは松永の好きにやらせてやろうか」との話になったようでした。

 そして大阪城ホールで、松永光弘対ミスター・ポーゴが実現しました。私はこの隙を逃すつもりはありませんでした。何しろ全身全霊を込めて、この試合への準備をしました。ミスター・ポーゴさんもやはり、FMWではストレスがたまっていたらしいです。

 松永光弘対ミスター・ポーゴは、凡戦も多々ある半面、時々利害関係が一致するとすごい試合になります。

 大阪城ホールのメインである電流爆破デスマッチ(大仁田対青柳政司)は、この日におそらく「大仁田厚縫い傷1000針」が達成されるだろうとの期待があり、盛り上がっていましたが、私は「絶対にメインを食ってやる」と異様な気合と殺気を漂わせていました。

 試合は、ガスバーナーや火炎バットまで飛び出す展開で、大阪城ホールの1万人の悲鳴や怒号が耳に残っています。

 そしてこの試合は、“大仁田厚1000針”を差し置き、「奇跡の表紙強奪」と題され、プロレス専門誌の表紙を獲得しました。W☆ING時代のスクランブルバンクハウスデスマッチに次ぐ、私のベストバウト、ナンバー2の試合です。

 ☆まつなが・みつひろ 1966年3月24日生まれ。89年10月6日にFMWのリングでプロレスデビュー。数々のデスマッチで伝説を作り、2009年12月23日に引退試合。現在は現役時代に開店した人気ステーキハウス「ミスターデンジャー」(東京・墨田区立花)で元気に営業中。