【プロレス蔵出し写真館】「彼は日本を一番愛していた」〝超獣〟ブロディの意外な一面

2020年11月22日 10時00分

角材を構えるブロディ(手前)を見たスヌーカはキャッチャー役を買って出た(1988年4月、福井・武生)

〝超獣〟ブルーザー・ブロディは1979年の全日本プロレス初来日当初から、ファイトぶりとは裏腹にリングを下りると穏やかで知的なレスラーだった。カメラマンの注文にも応えてくれるサービス精神もあった。

 写真は今から32年前の1988年4月3日、福井・武生市(たけふし=現在の越前市)体育館でのもの。試合前にブロディら外国人選手がベンチプレスなどで練習している様子を撮影していると、子供用ヘルメットが置かれているのに気付いたブロディは、頭にチョコンと乗せ角材を手に取りバットがわりに振り始めた。すると、それを見たジミー・スヌーカがキャッチャー役とばかりにブロディの後ろに回りポーズをとった。見事な連係プレー(?)だった。 
 
 スタン・ハンセンとの〝超獣コンビ〟はあまりにも有名だが、このスヌーカとのコンビでもあまたのエピソードを残している。

 ブロディとスヌーカは81年12月13日、蔵前国技館で行われた「世界最強タッグ決定リーグ戦」で優勝。翌年、仲間割れを起こし遺恨試合まで行ったものの、ブロディが全日本の扱いに不満を持って新日本プロレスに移籍。85年に新日本と提携関係にあったWWF(現WWE)で人気者だったスヌーカが新日本へ参戦してコンビが復活した。

 しかし「IWGPタッグリーグ戦」最終戦の12月12日、仙台で予定されていた藤波辰巳(現辰爾)、木村健吾組との優勝戦をボイコット。2人は、新日本の外国人選手の定宿だった新宿の京王プラザホテルを勝手にチェックアウトし、同じ新宿にあるホテルセンチュリー・ハイアット(現ハイアット・リージェンシー東京)に移ってしまった(後日帰国)。

 この時、本紙はブロディが上野から仙台に向かう新幹線に乗らずホテルに引き返したという報を聞き、ホテル前で張り込んだ。出てきた2人を撮影したカメラマンはブロディが「ノーモアジャパン」と言って手を振ったと興奮気味に会社に電話した。今でもその混乱した状況が思い起こされる、思い出深い出来事だった。

 その後新日本と和解したブロディは、またもドタキャン騒動を引き起こし永久追放処分となり、87年に全日本に復帰する。

 翌88年のブロディは3月27日に日本武道館でジャンボ鶴田を破りインターヘビー級王座を奪取、関係者と抱き合うなど喜びを爆発させ、見た目のイメージとは違った一面をファンに披露した。
 
 しかし、このインター王座は4月15日、大阪でUN&PWFヘビー級2冠王者・天龍源一郎との3冠統一戦を経て(結果は両者リングアウト)、19日の仙台で鶴田にピンフォール負けして王座を奪回された。

 そして、22日の川崎でのシリーズ最終戦ではスヌーカとのコンビで天龍、阿修羅原組のPWF世界タッグに挑戦する予定だったが、スヌーカが前日、ジョン・テンタのパワースラムで肋軟骨を骨折したためパートナーをトミー・リッチに変更。リッチがフォールされ王座奪取に失敗。

 8月に再来襲を予告したブロディだったが、まさか、この試合が日本で最後の試合になってしまうとは…。

 ブロディは7月16日、プエルトリコ・バヤモンでの試合前、控室でホセ・ゴンザレスにナイフで刺され、翌17日、大量失血が原因で病院で息を引き取った。

 20日に行われた告別式では「彼は日本と日本のファンを一番愛していた」(バーバラ夫人)とプエルトリコ、米国のマスコミをシャットアウトして本紙を始め日本のメディアだけに亡きがらの撮影が許された。

 享年42。早すぎる死だった――(敬称略)。

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