【プロレス蔵出し写真館】マスコミ嫌いのアンドレがまさかの〝取材解禁〟 担当記者が恐る恐る控室をのぞくと…

2020年11月15日 10時00分

記者が恐る恐る室内を見つめる前でカードゲームを楽しむアンドレ(1986年6月、松戸)

〝大巨人〟アンドレ・ザ・ジャイアントは取材しづらいレスラーの一人だった。いつのころからかマスコミ、そしてファンをも遠ざけるようになっていたからだ。

 アンドレがモンスター・ロシモフのリングネームで初来日したのは今から50年前の1970年1月、国際プロレスの「新春チャレンジ・シリーズ」だった。ロシモフの名は知られてはいたが、どちらかと言えば「ノートルダムのせむし男」の異名を持つ怪奇派レスラー、カシモドの方が興味をもたれていた印象だった。

 翌年に行われた「第3回IWAワールド・シリーズ」でビル・ロビンソン、カール・ゴッチを抑え優勝。優勝したことよりも、その巨体をゴッチにジャーマンスープレックスホールドで投げられる出来事の方が話題になったが、ロシモフの名は大いに広まった。 

 アンドレ・ザ・ジャイアントとして新日本プロレスに主戦場を移したのは74年。アントニオ猪木との抗争がメインとなり、ヒール扱いになっても78年までは特写の依頼にも応えてくれた。

 しかし、対応は少しずつ変わってきて憎まれキャラになってきたように思う。まず、リング上で選手に花束を贈呈する〝花束嬢〟をターゲットにし始め、そばに寄って威カクする、花束を叩き落とす、奪った花束をぶつけるのは日常茶飯事。あげくの果てには蹴り飛ばすこともあった。

 もっとも悲惨だった光景は、リング上で待機していた花束嬢の足をリング下から掴んで引きずり落としたことだ。セコンドの高田伸彦(後の延彦)、小杉俊二らが必死に制止したが、あわれ花束嬢は引きずられたことでスカートがズリ上がり下着が露わになったままリング下に落とされた。花束嬢は恐怖に髪の毛が逆立つという、まさに犯罪レベルの行動だった。

 マスコミに対しては80年の後半、「MS・Gタッグリーグ戦」のころからだったように思うが、不機嫌な態度を取るようになった。マスコミはおろかファンに対してもそうだった。

 アメリカではベビーフェイスとして子供にも人気で愛想もよかったアンドレだが、日本では「日本人嫌い」というイメージが定着した。

 そんなアンドレがマスコミに対し、5~6年ぶりに公に外国人控室の入室を許可したのは86年6月18日、千葉・松戸市運動公園体育館でのこと。既に入室していたカメラマンがアンドレがカードゲームを楽しむ様子を撮影している最中、後から来た記者は半信半疑といった表情で恐る恐る中をのぞいていた(写真)。

 いつ「ゲラウエー(出ていけ)!」の叫び声が上がるか、戦々恐々としていたのは中にいた我々もそうだったが…。

 アンドレは前日、名古屋の愛知県体育館で行われた「IWGP王座決定リーグ戦Aグループ」での猪木戦で腕を逆に決められ、まさかのギブアップ負け。本紙は世界初の快挙と報じた。

 マネジャーの将軍KYワカマツは、20日京都でのワンナイトトーナメントでアンドレが優勝して猪木に雪辱すると代弁。事実、京都府立体育館で行われた「佐川急便杯争奪トーナメント」で猪木をリングアウトで破り優勝。賞金1千万円を獲得し、またも報道陣を控室に呼び寄せ、満面の笑みで写真に納まった。

 この時取材した本紙「ザ・プロレス」の担当記者は米ノースカロライナ州エラーベにあったアンドレの自宅訪問まで許され、一週間後の27日にプライベートを楽しむアンドレを取材した。
 
 アンドレの新日本への来日はこの年で最後となり、90年4月に行われたWWF(現WWE)と新日本、全日本プロレス共催の「日米レスリングサミット」まで来日することはなかった。

 控室取材をなぜ許可したのか? 惜別の意味があったのだろうか…(敬称略)。

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