【ミスター・デンジャー松永光弘 この試合はヤバかった】松永光弘氏を「ミスター・デンジャー」に変えた瞬間。後楽園ホールでのバンクハウスデスマッチ(銃刀類の使用以外の全ての反則OK)で、あまりに危険な“伝説の8メートルダイブ”決行に至ったその思いは――。

【1992年2月9日 松永光弘、ジプシー・ジョーVSミスター・ポーゴ、ミゲロ・ペレスJr】

後楽園ホールのバルコニーからダイブ。私がミスター・デンジャーと呼ばれるようになった試合です。FMW創成期での日本初の有刺鉄線デスマッチを行いデスマッチの虜(とりこ)になった私でしたが、当時は空手家として誠心会館に所属していたために、青柳館長の命令で泣く泣くパイオニア戦志へ移籍、そして新日本プロレスへ参戦するもわずか2試合で解雇され、鳴かず飛ばず。旧W☆INGに参加しましたが、1シリーズで崩壊。上がれる団体を失った私は2か月間、名古屋のNTTビルの建設現場にいました。

 すでに金髪だった頭髪をヘルメットで隠してのアルバイト。日本初の有刺鉄線デスマッチ、新日本プロレスへの参戦を経てのアルバイト生活は本当に情けない思いでしたが、この悔しさを晴らす舞台が近づいてきていました。

 このころ、新日本プロレス対誠心会館の抗争が勃発しましたが、私はこれに興味を示さず、デスマッチのリング、W☆INGプロモーションへの参加を決意します。「ようやく大好きなデスマッチを行うことができる」と喜びましたが、何せW☆INGは日本一の弱小団体。新日本プロレス対誠心会館を蹴っての参戦に戸惑いはありました。

 しかも新日本対誠心会館の初戦で小林邦昭選手をレフェリーストップで下した、高校時代の同級生であり最大のライバルでもある齋藤彰俊選手がプロレス専門誌の表紙を飾りました。頭をハンマーで殴られたようなショックでフラフラになりました。まさにライバルが一番下から、一気にエレベーターで最上階まで行ってしまったのです。

「地味だ」「スター性がない」「キックの切れ味もない」と言われていた私は、ライバルに対する意地、いや、意地というよりジェラシーだったと思います。忘れもしない1992年2月9日、一度午前中に後楽園ホールに行った私は、バルコニーに立つアイスマンの姿を見つけます。

「ここから飛んだら面白い。しかし不可能」

 そうつぶやくアイスマンを見た私はホテルへの帰り道に決意します。

「俺が飛ぶ、飛ぶチャンスは必ず見つける」

 お金も人気もスター性もなかった私が、試合終了後の乱闘時にバルコニーに上がり、乱入してきたヘッドハンターズ目掛けて飛びました。ミスター・デンジャーが誕生した瞬間でした。

 ☆まつなが・みつひろ 1966年3月24日生まれ。89年10月6日にFMWのリングでプロレスデビュー。数々のデスマッチで伝説を作り、2009年12月23日に引退試合。現在は現役時代に開店した人気ステーキハウス「ミスターデンジャー」(東京・墨田区立花)で元気に営業中。