アントニオ猪木や獣神サンダー・ライガーのユーチューブチャンネルで、71才の藤原喜明が元気な姿を披露している。

 組長こと藤原喜明は、新日本プロレス時代から若手のコーチ役として知られるが、それは道場に限らず試合会場でもその手腕を存分に発揮していた。

 1980年代の新日本プロレスは、会場の客入れが試合開始の1時間ほど前だったと記憶しているが、選手は試合開始30分くらい前までリング上でスパーリング、会場後方でバーベル、ダンベルを使って練習(ウエイトトレーニングルームがある会場が少なかった)していた。    

 そこでよく目にしたのは、試合前の合同練習が終わりリングに残った藤原がスパーリングで若手を鍛える風景だった。相手を上から抑え込みながら、カメラに向ってVサインするなどサービス精神も旺盛だった。

 藤原が鍛えていた若手は、80年代前半は断トツで高田伸彦(後の延彦)が多かった。

 高田とのスパーリングは時に場所を選ばなかった。会場の薄いシートが敷かれただけの硬い床の上での本格的なものだったり、コンクリートの上では片脚を取ってのテイクダウンの練習などを行っていた。

 藤原が旧UWFへ移籍し、85年に新日プロに戻って来てからは変身前の山田恵一が多かったが、山田が海外遠征に出た後は船木優治(後の誠勝)が藤原を独占していた。

 個人相手の練習にとどまらずリング上に若手、中堅選手が集まって〝藤原教室〟が開講することもあった。

 写真は今から34年前の1986年11月18日、東京・大田区体育館でのひとコマ。

 ドン荒川を相手にアームロックの講義をする藤原の周りに集まった選手は、写真の前列左から留学生の金秀洪、船木、橋本真也、片山明、ブラック・キャット、武藤敬司、1人おいて後藤達俊、右手前は飯塚孝之(後に高史)。後列左から大矢健一(後に剛功)、蝶野正洋、越中詩郎、野上彰(後にAKIRA)、留学生のクリス・ベノワ、松田納(後にエル・サムライ)、留学生のダリル・ピーターソン。

 この年藤原は、米国遠征中にカール・ゴッチから教わった関節技をイラスト入りでノートに書き留めた「藤原ノート」を出版(09年には「復刻 幻の藤原ノート」として復刊。昨年「刷新 藤原ノート」として新たに出版された)。

 集まった選手たちは藤原の関節技の講義に皆、真剣なまなざしを向けた。

 中でも海外武者修行から帰国したばかりの期待のホープ・武藤は、坂口征二から依頼された藤原からマンツーマン指導を受け、その後この講義に参加。メインにも抜擢されるようになり、この日も藤波辰巳(現辰爾)と組み「ジャパンカップ争奪戦タッグリーグ戦」で前田日明、木戸修組と対戦した。

 藤原はこの講義を終えると、いつものように船木とスパーリングを始めたのだった。

 余談になるが当時、スパーリングをしている藤原の写真をリングサイドで撮っていた本紙カメラマンが、何気なく「ちょっと違うんだよな~そこはこうやって…」と、何気なくつぶやいた。それは運悪く藤原の耳に入った。

「オイ、リングに上がって来い!」藤原は激怒。

〝関節技の鬼〟にダメ出しする命知らずが東スポにいた(後に無事和解)。(敬称略)