ジャイアント馬場の付き人物語①

2012年03月03日 14時47分

 日本プロレスの祖は言わずと知れた力道山。大相撲関脇の昭和25年(1950年)9月に廃業。それから4年後の昭和29年(1954年)2月に日本プロレスの記念すべき国際試合を蔵前国技館で開催。柔道の鬼・木村政彦氏と組み、シャープ兄弟を迎え撃つ。


 大相撲出身の力道山は相撲の多くのものをプロレスに持ち込んだ。地方興行のシステムは大相撲の地方巡業そのままであるし、今でも使われているプロレス界の隠語は力道山が大相撲の世界から持ち込んだものだ。なんと言っても一番プロレス界に影響を与えたのが付き人制度だ。


 付き人はメーンレスラーの特権で若い人が付き身の回りの世話を一切合面倒を見る。洗濯、着替えから時にはトレーニングパートナーも務め、食事など行動を共にする。レスラー・人間形成などで若手は大きく左右されることになる。アントニオ猪木が新日プロを立ち上げた時に行動を共にした山本小鉄、魁勝司、木戸修、藤波辰己は猪木の付き人で、ジャイアント馬場が全日プロを創立した時に付いていったマシオ駒、大熊元司、サムソン・クツワダ、佐藤昭雄も全員が馬場の付き人だった。


 馬場の初代付き人はマシオ・駒。駒の場合は馬場が駒から多くのものを学び、2代目が大熊元司でハチャメチャな付き人だった。ある時、馬場の16文リングシューズを宿舎に忘れるという大失態。それでもめげなかったのが熊さん。当時、来日していた韓国の巨人パク・ソンナン(朴松男)のリングシューズを借りて黙って馬場に履かせたという。「なー、熊よ」とだけ言ってリングに上がって行った馬場は大物だ。


 次に付いたのがグレート草津。国際プロレスを起こした吉原功氏に誘われて国際プロ入り。その時、エース気取りの草津は「馬場さん、日本のプロレスのためにお互い頑張りましょう」とやらかし大ひんしゅくを買ったのは余りにも有名な話である。その後、サムソン・クツワダ、佐藤昭雄と続く。


 本当の新弟子が馬場に付いたのは佐藤昭雄が最初だ。日プロの幹部が「そろそろ馬場、猪木に新弟子の付き人に付けよう」との話が持ち上がり昭和45年5月に入門してきた佐藤が馬場に付き、それから2週間後に入門してきた藤波が猪木に付くことになる。この時、日プロのシリーズは北海道→九州の日程。それで北海道弟子屈出身の佐藤が先に入門となった。もしこの日程が逆だったら大分出身の藤波が先の入門となり、藤波が馬場の付き人になっていた。当時の日プロの順位は馬場があって猪木があるという順位付け。その後の歴史が大きく変わっていただろう。


 たかが付き人、されど付き人。日本マットを大きく動かす原動力でもあったわけだ。馬場の付き人はその後、大仁田厚、園田一治、越中詩郎、マジック・ドラゴン、川田利明、小橋建太と続き最後の付き人が志賀賢太郎となっていく。(つづく)

(プロレス記者の独り言:川野辺)

関連タグ:
 

ピックアップ