1962年7月25日 力道山絶叫!!「俺は勝っていた」

2020年07月15日 11時00分

試合後の力道山は悔しさをあらわにした

【プロレスPLAY BACK(93)】日本プロレスの祖・力道山の偉業については「第3回ワールド大リーグ戦制覇」でも触れたが、国際的な快挙の一つがWWA世界ヘビー級王座奪取だ。「世界王座」が絶対的な威厳を誇っていた時代とあって、1962年3月28日に米国ロサンゼルスで“銀髪鬼”ことフレッド・ブラッシーを破って同王座を初戴冠した際は、一般紙も結果を大きく報じた。後々になってWWAという団体は数々の謎に包まれた「伏魔殿」と呼ばれ、60年代末にはNWAに吸収されるが、当時の日本人にとっては間違いなく快挙だった。

 今から58年前の62年7月25日、ロサンゼルスでの再戦では力道山がブラッシーに敗北。いまだに“疑惑の裁定”として語り継がれる大騒動の末にベルトを失った。当時の本紙は11枚の写真を使い1面で決戦の詳細を報じた。「カリフォルニアルールに泣く」という見出しが印象的だ。

「力道山はこの試合で3月28日以来、約4か月にわたって保持したワールドチャンピオンのベルトを奪われてしまった。前半優勢のまま試合を進め、空手チョップの乱打から痛烈な一本背負い。さらにロープに飛んで反動を利用した殺人タックルでトドメを刺し、ボディープレス(体固め)で先制した。

 2本目はブラッシーのあくどい反則攻撃に怒った力道山が捨て身の殺人タックルを敢行したが、ブラッシーにかわされてエプロンに吹き飛び、ガーンと鉄柱に激突して額を真っ二つに割った。以降はブラッシーによる反則攻撃による一方的試合になったが、カリフォルニアルールの“流血試合禁止条項”に引っかかってしまった。

 結局、州コミッショナーの命令によって2本目は力道山がドクターストップ負け。3本目は棄権とされ、チャンピオンベルトはブラッシーの手に渡った。力道山は本紙の国際電話に対し『俺は勝っていた。試合のフィルムを見てくれ』と絶叫した。写真だけで全てを判断することはできないが、力道山は圧倒的に試合を進めており、このあたりに“勝敗のいざこざ”があったと考えられる」(抜粋)
 要するに「流血は即ドクターストップ。その後の試合は流血した側の負け」というルールが適用されたわけだ。情報量が圧倒的に少なかった当時は「WWAの陰謀」などとも言われた。結局、王座はその後“白覆面の魔王”ことザ・デストロイヤーに渡り、力道山と激闘を展開する。

 ちなみに、現在のWWEでも流血試合に対する措置は厳しく、WWEネットワークでは血が流れた瞬間、映像はカラーから白黒にスイッチする。日本と米国では流血に対する感覚がかなり異なるということも事実である。(敬称略)