ラッシャー木村が猪木に挑戦状

2020年06月13日 11時00分

木村が猪木に挑戦状を出したことを報じる75年6月7日発行紙面

【プロレスPLAYBACK(88)=1975年6月6日】全盛期は“金網の鬼”と呼ばれ、往年は“マイクの鬼”の異名を取ったラッシャー木村(享年68)が亡くなって今年で10年(2010年5月24日没)。最前線から撤退した後はコミカルなマイクパフォーマンスで人気を呼んだが、やはりレスラーとしての黄金期は国際プロレス時代に金網デスマッチで激闘を展開した時期に尽きる。

 今から45年前の1975年6月6日、木村は金網デスマッチでキラー・トーア・カマタを退けて看板のIWA世界ヘビー級王座V2に成功。この日の大会前には新日本プロレスのアントニオ猪木に挑戦状を出して話題を呼んだ。

「国際プロレスのIWA世界ヘビー級選手権試合が6日夜、宇都宮市体育館で行われ、チャンピオンのラッシャー木村が日系の“流血鬼”キラー・トーア・カマタと金網デスマッチで激突。14分59秒、カマタを血だるまにしてKO。2度目の防衛に成功した。この日、新日本プロレスのA・猪木に“対決”の挑戦状を出した木村は積極的な試合運びを見せ、パイルドライバーを連発してラッシュ。額を傷つけられながらも浜口が投げ入れたイスでカマタを殴打。最後はブレーンバスターで鮮やかにノックアウトした。この結果、木村は勝者に挑戦状を出していたマイティ井上と6月29日、後楽園ホールで3度目の防衛戦を行うことになった。同団体で日本人同士のタイトル戦が行われるのはS・小林―木村(2度)、木村―G・草津(王座決定戦出場資格争奪戦)に次いで4度目となる。

 また国際プロは6日正午に東京・高田馬場で会見を行い、木村が猪木に対し“対決”実現を要求する挑戦状(内容証明付き)を送ったと発表した。木村は早くから日本選手権の開催を提唱していた猪木に対し、今年1月7日、これに賛同する意見を述べ、口頭で猪木への挑戦をほのめかしていたが、正式な文書で挑戦状を送ったのは今回が初となる」(抜粋)

 紙面中央には大きく木村の挑戦状が掲載されているものの、猪木の反応は「えっ! 木村が私に挑戦するって? どんな相手でもいつでも挑戦されれば受けて立つつもりだが、相手が木村じゃねえ。条件はひとつ。私に挑戦したいなら戦う場所、日時、放送権など一切を新日に任せることだ。こっちだってプロだからメリットのない戦いはやりたくない。噂では国際プロレスと全日本プロレスが合同興行をやるそうだが、なんだったら木村が馬場さんとやってその勝者がくればいい」と、素っ気なかった。第3勢力の国際は大勝負に出たつもりだったが、当時業界のトップを走っていた猪木のプライドに一蹴された格好だ。

 しかし猪木の言葉通り、同年12月6日からジャイアント馬場の全日本は国際と外国人選手の強豪20選手を集めた、当時としては最大規模の総当りリーグ戦「オープン選手権」を開催(同18日最終戦、優勝は馬場)。木村は同17日の公式戦で馬場と激突するもブッチャーの乱入もあって敗退、ジャンボ鶴田らと同点の5位タイに終わった。猪木との初対決は、国際崩壊後の81年10月8日まで約6年半もの歳月を要することになる。

(敬称略)