【プロレスPLAYBACK(1969年5月18日)】223センチの身長を誇り、“人間山脈”“大巨人”の異名を取ったアンドレ・ザ・ジャイアント(故人=顔写真)は、現在でも不世出の名レスラーとして語り継がれている。世界最大の団体、米「WWE」の本社玄関にはアンドレの銅像が置かれ、祭典「レッスルマニア」ではバトルロイヤルの冠名にもなっている。

 アンドレは、モンスター・ロシモフのリングネームで1970年2月に国際プロレスに初来日。前年の69年5月18日(日本時間19日)には母国フランス・パリで、イワン・ストロゴフと組んで初代IWA世界タッグ王座決定トーナメントに出場している。決勝戦はパリでも有名なエリゼ・モンマルトル劇場に超満員8500人の観衆を集めて行われ、豊登、ストロング小林組が勝利して初代王者に輝いた。同王座は後に国際プロの看板王座となった。

「国際プロレスが新制定したIWA世界タッグ選手権争奪戦で、見事に日本の豊登、ストロング小林組が優勝。堂々初代王者となった。試合は19日午前5時(現地時間18日夜)パリ市内のエリゼ・モンマルトルで行われ、ロシモフ、ストロゴフ組を2―1で撃破。本紙は国際電話で、パリの豊登と小林に快勝の詳細と喜びの声を聞いてみた。

 豊登『1本目は小林が威勢よくいったが、ロシモフの反則にやられた。2本目は、わしがストロゴフに逆片エビ固めを決めギブアップさせた。3本目は、小林がストロゴフの痛めた左ヒザを徹底的に狙い、逆片エビ固めでギブアップさせた。試合後は脱臼して救急車で運ばれていたよ。16日には2メートル以上あるエルマンソー兄弟というのに勝ってきたチームだが、わしたちの評判がいいのでストロゴフは、216センチ、150キロ(当時)という日プロの馬場君より大きいロシモフにパートナーを代えて決勝戦に出てきた。最初見た時は、あまりの大きさに震え上がったが、腕力なら負けない自信があった。2人は、必ず日本に行くからなとケンカを売ってきた』

 小林『8500人全部が僕らの味方だった。ロシモフ組は攻撃が汚いので、最後までヤジられていた。会場のパリジャン、パリジェンヌ一人ひとりと握手したかった』

 豊登『小林はすさまじい人気で、ヨーロッパ中のプロモーターから引っ張りだこだ。今度は小林と西ドイツに行く』」(抜粋)

 小林の言葉が実に初々しく、豊登が絶大な期待を寄せているのが分かる。当時小林は28歳。デビュー2年にも達しておらず、前年10月に初の海外修行に出たばかりだった。一方の大巨人はまだ情報量が少なかった。翌年に初来日を果たして国際プロファンを驚かせるが、世界中で人気を爆発させるのは73年にアンドレに改名してWWWF(現WWE)と契約してからになる。(敬称略)