武藤敬司 師匠・猪木氏を語る「抜群の知名度でプロレス界を背負って社会と戦った」

2020年05月09日 11時00分

プロレスリングマスターは燃える闘魂を余すところなく語った

“プロレスリングマスター”武藤敬司(57)がレジェンドレスラーたちを語る新シリーズ(随時掲載)がスタート。第1弾は“燃える闘魂”アントニオ猪木氏(77)について存分に語った。天才は師匠でもある猪木氏をいったいどのように見ていたのか。さらに武藤が若手時代に体験した驚きのエピソードも披露した。

 猪木さん…まあ、皆さんの想像そのままのお人ですよ。それじゃあ終わっちゃうか(笑い)。

 猪木さんといえば、なによりもまず抜群の知名度。日本のプロレス界が始まって、力道山が国民すべてに知られる存在になり、続いて8割くらいに知られるくらいの知名度だったっていうのは、改めてホントにすごいことだよ。

 そしてその知名度でプロレス界を背負って社会と戦いましたよね。途中からプロレスを飛び出して政治の方に行っちゃったけど(笑い)。でも、プロレスラー・アントニオ猪木として見ると、実はそんなにメチャクチャ運動神経がよかったわけじゃなかったりもする。ヘタしたら俺の方が全然運動神経よかったりするんですよ。

 一見でたらめで、一般の人からしたらそこが面白いんだろうけど、実は猪木さんの中ではすべて調和がとれての行動だったと俺は思ってる。しっかりと計算した上で、普通じゃないことを求めていた。

 例えば異種格闘技戦。あれって、だいたい初対面で即試合だった。今のプロレスみたいに、何十回とやって手が合うようになってからメインにいくのと違う。一発勝負で、どこのどんなやつか分からないような人とやるっていう“疑問符”をうまく利用してたよね。そこでこなしきる猪木さんって本当に素晴らしいんだよ。

 そういや、俺にもそういう試合が1990年代に何度もあった。93年9月26日のハルク・ホーガン戦。初対決でいきなり大阪城ホール大会のメインだったからね。94年5月1日のムタVS猪木も初対決。そういう試合を組まれると「武藤だったら初対面でもまとめきれるんじゃないか」って思われてるって、どこかしら猪木さんに信用されてる気がしたな。

 猪木さんって、予定調和をすごい嫌う。モハメド・アリ戦なんてその典型で、どうなるか本人だって想定できてなかったんじゃないかな。フォークダンスとかフィギュアスケートのペアみてぇなプロレスを好きじゃないと思う。ちなみに、俺もそんなに好きじゃない。よく俺と猪木さんのスタイルが正反対だっていう人がいるけど、そういう意味で実は近いんだよ。

 プロレスのスタイルも猪木さんは基本形のアメリカンスタイルを日本流にアレンジしたもので、俺のはそれより少し近代的なアメリカンスタイルだから。今は空中2回転とか3回転とかやってるけど、猪木さんはそんなことしなくても“首の筋”だけで見せることができた。それが素晴らしいと思う。プロレスって、そういうものだと思うんだ。これって昔の感性なのかもしれねぇけどさ…。

【巡業中の珍エピソード】よく覚えてるのは、まだぺーぺーのころ、長野かどっかの会場で「走るぞ」って言われて付いて行った時のことだな。走ってたら、マラソンみたいに沿道のおばさんたちの歓声が途切れなくなっちゃった(笑い)。それで猪木さんも気分がよくなって全然Uターンしなくって…。猪木さんはメインだからいいけど、俺はペーペーだから第1試合に出場しなきゃいけない。だから結局、タクシーで帰ったよ。

 あと稚内の方に巡業行った時には、朝起きて海岸まで全員でマラソンしたことがあった。猪木さんが筆頭で走って。そしたらまだ2月なのに、北海道なのに、海で「よし、泳ぐぞ!」って言い出して、そのまま海に入っちゃった。俺も若いから入るしかないじゃない。もう、冷たくておぼれそうになって…。後で考えたら当時、糖尿病の治療で猪木さん、毎朝氷風呂に入ってたんだよ。俺ら全員それに付き合わされたってこと。35年くらい前に、ひでぇ話だよ…。

 最近会ったのは、俺がプロデュースしている「プロレスリング・マスターズ」の2月大会に出てもらった時だな。そういえば、その来場のお願いをしに行った時、例のプラズマの話(注・プラズマを使った廃棄物処理)を力説してたよ。「ごみがなくなる」って言ってたね。

 生き方がブレないんだよ。タバスコを持ってきたのも猪木さんだし(注・70年代に猪木の貿易会社が日本販売権を所有していた)、マテ茶もはやる前に持ってきてたり。そういう先見の明がリングでも生かされていたんだと思うな。

☆むとう・けいじ 1962年12月23日生まれ。山梨県富士吉田市出身。1984年、新日本プロレス入門。同年10月5日、埼玉・越谷市体育館での蝶野正洋戦でデビュー。海外でもグレート・ムタとして人気を博すなど、新日本プロレスでは名実ともにエースとして活躍。2002年に全日本プロレスに移籍、社長就任。13年に全日本プロレスを退団し、新団体W―1を旗揚げ。今年4月、W―1を活動休止とし、フリーとなる。獲得タイトルはIWGPヘビー、3冠ヘビーなど多数。得意技はシャイニング・ウィザード。188センチ、110キロ。