【プロレスPLAYBACK(2004年4月15日)】全日本プロレス春の祭典「チャンピオン・カーニバル」は第40回を迎えた今年、新型コロナウイルス感染拡大の影響により、史上初めて「中止」の措置が取られた。ファンにとっては残念極まりないだろうが、別にカーニバルが消滅するわけではない。

 1973年に第1回大会が開催されるも、83年から90年まで長く開催されない期間が続いた。この時期はNWA世界王者、AWA世界王者が相次いで来日したためで、タイトル戦が主流となっていた。91年の祭典再開は、前年4月に天龍源一郎らがSWS旗揚げで大量離脱しており、新たな看板シリーズが必要とされた背景があった。

 そして今からちょうど20年前の2000年4月15日日本武道館大会、鉄人・小橋建太が悲願の初優勝を飾っている。実は一部で「これが最後のカーニバルになるのでは」とささやかれていた。三沢光晴ら後のノア勢の大量離脱が水面下で進んでおり「三沢たちが退団すれば全日本は潰れるのではないか」との見方が強かったからだ。

 そんな不穏なムードの中で開催されたカーニバルは、第3回以来15年ぶりにトーナメント方式で行われ、優勝戦では小橋が大森隆男を撃破した。

「序盤は大森が小橋の爆弾・右ヒザに狙いを絞ってペースを握った。1回戦で秋山準をわずか7秒で破ってV戦まで進出した勢いは止まらず、飛龍原爆連打、斧爆弾、最上段からのヒザ爆弾でダッシュした。しかし小橋は2発目のアックスボンバーをスリーパーで切り返し、そのまま強引にスープレックス。ラリアートを挟んでからパワーボムで大森の後頭部をコーナーに叩きつけると、仁王立ちで斧爆弾を正面から受け止めて渾身のラリアート。最後は悲鳴のような大歓声の中、この日3度目のラリアートで大森を1回転させ、悲願のVを手中にした」

 結局、同年6月9日武道館大会を最後に、三沢は同13日に全日本を離脱。16日にノア設立を発表する。小橋もカーニバル初制覇からわずか約2か月後、3冠ヘビー級王者(後に返上)のまま三沢に追従した。選手やスタッフ約40人の離脱に「これで全日本は終わり」との声が出るのも当然で、小橋が最後の覇者になるものと思われた。

 しかし、ここからとんでもない奇跡が起きる。天龍が7月に約10年ぶりにまさかの古巣復帰。馬場元子社長と涙の和解を果たし、8月には渕正信が新日本プロレス両国国技館大会に単身乗り込んで宣戦布告。10月東京ドーム大会では川田利明対佐々木健介の頂上対決が実現し、同年の東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」ベストバウトを獲得したのだ。倒産どころか、まさに死地からの大逆転劇だった。

 結局、翌01年には川田、天龍、太陽ケア、初参戦の藤原喜明、スティーブ・ウィリアムスら10選手によりカーニバルは無事に開催され、天龍がデビュー25年目で初優勝を決め、現在に至る。春の祭典は数々の困難を乗り越えてきた。今回の中止はほんの少しの「休息」と考えればいい。来春、王道マットは再び大歓声に包まれているだろう。(敬称略)