デストロイヤーさん「白覆面の素顔」和田京平氏が追悼秘話「馬場さんを手玉に取ったからすごいよ」

2019年03月10日 11時00分

グッズの白覆面を披露(1967年4月)

「白覆面の魔王」の異名を取った覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤーさん(本名ディック・ベイヤー)の死去に、世界のマット界から追悼の声が続々と上がっている。7日(日本時間8日)に米ニューヨーク州の自宅で家族にみとられ88歳で旅立ったデストロイヤーさん。日本で最初に活躍した外国人選手として今もなお、故人を慕うファン、選手、関係者は数多い。成功の秘訣は何だったのか。白覆面の下に隠された“魔王の素顔”に迫った。

 デストロイヤーさんの初来日は1963年5月の日本プロレスで、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木らと激闘を繰り広げた。猪木氏は訃報に接し「体格のハンディをものともしない努力に裏打ちされた一流レスラーとしてのプライドを感じました。心よりご冥福をお祈りいたします」と追悼コメントを出した。世界最大のプロレス団体・米WWEもホームページでデストロイヤーさんの訃報を伝えた。

 72年に馬場さんが旗揚げした全日本プロレスに参戦。同年にリングスタッフとして加入した和田京平名誉レフェリー(64)は「インテリだったね。教員免許を持っていることから分かるように、とても頭の切れる選手だった。駆け引きが上手で、ある意味、あの馬場さんを手玉に取ったからすごいよ」と振り返る。

 他の外国人選手とは違い、妻子を日本に呼んで生活したことも大きかったという。グッズ売り上げは抜群で、70年代の人気番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」(日本テレビ系)にも出演。和田アキ子とのコントが名物となり一躍、国民的人気を集めた。プロレスラーでバラエティーにいち早く進出したのも、より日本での“商品価値”を高めるためだったのではないかと和田氏は見る。

「これだけ長く日本にいた外国人はいないでしょ。全日本の所属になっていた。家族も日本に呼んだから、簡単に(契約を)切ることはできないよ。そりゃ、馬場さんだってかなわないと思ったんじゃないかな。デストロイヤーも米国では無理だ、自分の時代じゃないと判断して、日本で稼ごうと思ったんだろうね。その辺の切り替えはすごい」

 かねて和田氏が「経営者としてもすごい人」と評する馬場さんと渡り合えるほど“ビジネスマン”としても一流だった魔王には、「教育者」としての顔もあった。リング外ではレスリングを通じて日本の青少年育成にも尽力。2007年にはキッズレスリング普及のため、必殺技の足4の字固め(フィギュアフォーレッグロック)にちなんで命名されたNPO法人「フィギュアフォークラブ」が設立された。日本在住時に東京・港区を拠点にしていたことから、現在も同区ではレスリング大会「デストロイヤー杯」が開催されている。

 港区レスリング協会の村本健二理事長(67)は「港区を『第2の故郷』と言ってましたから。港区に愛着があって『日本で道場をつくってほしい』と言われ、マットを貸したことから大会開催につながりました」と振り返る。デストロイヤーさんの指導には信念があったという。

「(引退後は)米国で体育教師をしたくらいですから、教育者として子供たちのことを考えていました。子供には『試合では勝ったり負けたりするけれど、マットの上では平等なんだ。みんなが幸せにならないといけない』と教えていました」

 16年には86歳の高齢をおして来日し「デストロイヤー杯」で少年少女たちの奮闘を見守った。村本氏は「2~3時間かけて800人くらいにサインをしてくれました。カート(長男のカート・ベイヤー氏)も『ここにいる時が一番幸せそうだ』と言ってくれて。大会の後にはお酒の席で、2次会まで付き合ってくれました」と明かす。その席でアルコールも口にしていたというから「魔王」の真骨頂だろう。

 カート氏を通じて5月4日に行われる今年の大会にも「行きたい」と伝えてきたが、願いはかなわなかった。「みんなから好かれた人だった」(和田氏)という魔王の白覆面の下にあった素顔も、ファンのみならず選手、関係者から愛されていたのは間違いない。

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