“爆弾小僧”の異名を取ったレジェンドプロレスラー、ダイナマイト・キッド(本名トーマス・ビリントン)さんが5日、英国内で死去した。60歳の誕生日を迎えたばかりだった。新日本プロレスに参戦した1980年代にライバルとして数々の激闘を繰り広げた初代タイガーマスク(61)と“炎の飛龍”藤波辰爾(64)が哀悼の意を表したが、明かされた素顔は華やかなリング上とは180度違うもの。最期まで「孤高」を貫いた爆弾小僧の壮絶な生きざまとは――。

 キッドさんは60歳の誕生日を迎えた日に帰らぬ人になった。1958年12月5日、英国ランカシャー州ゴルボーンの出身で、13歳の時にレスリングを始め、75年にスカウトによりプロ入りした。78年にはカナダのカルガリー地区に転戦し、軽量級のスターとして飛躍。86年4月にはWWF(現WWE)で世界タッグ王座も獲得したプロレス史に残る名レスラーだった。

 79年に国際プロレスのリングで初来日を果たし、81年4月23日の新日本プロレス蔵前国技館大会では初代タイガーマスクのデビュー戦の相手を務めたことで一躍、日本のファンにもその名が知られた。その試合で敗れたものの、初代タイガーの魅力を引き出して関係者から高く評価された。173センチと小柄ながらも力強く、スピード感あふれるファイトスタイルで魅了。初代タイガーや藤波の好敵手として活躍し、84年に全日本プロレスに移籍した。

 70年代後半のカルガリー遠征で初対戦した藤波は「ショックだよね。本当に残念。体が細かったけど、小さいことにコンプレックスがあったのか、破壊力は抜群でしたよ。これまでにない選手でビックリしました。ジュニアの一時代を築いた人でした」と振り返る。当時の新日プロ関係者によると、若手レスラーがキッドさんの試合をこぞって研究したというから、その衝撃はよほどだったのだろう。

 一方で、リングを下りた素顔は正反対だった。藤波は「自分を持っていて、ブレなかった。控室でも他の外国人選手とはつるまず、いつも一人でいた」と明かす。

 91年12月に体力の限界を理由に引退を表明するも、93年に日本と英国で同時にカムバック。だが全盛期のような切れ味を発揮することができず、徐々にフェードアウトしていった。さらに体調不良を抱え、施設で過ごす生活が続いた。2013年公開の自身のドキュメンタリー映画などでは、ステロイド(筋肉増強剤)を使用していたとも告白。死因は不明だが、同年には脳卒中を起こして倒れ、他にも心臓などに大きな疾患を抱えていた。激戦による後遺症と副作用に悩まされていた様子がうかがえる。また、晩年は他のレスラーとの接触も拒み、2年前に英国を訪れた藤波が対面を試みたが、実現することはなかったという。

 初代タイガーは「現状は知っていたので覚悟はしていましたが、私にとって偉大なライバルであるトミー(キッドさんの愛称)が亡くなって悲しみに暮れています。今はただ、安らかに眠っていただきたいです」と哀悼メッセージを寄せた。

 日本プロレス界に多大な影響を与えた孤高のレスラーは、一人静かに天国へと旅立った。