【魔法のムチ「武邦彦の真実」6】えらいことになった74年「皐月賞」無敗キタノカチドキに「三重苦」

2016年08月12日 16時25分

【連載6:魔法のムチ「武邦彦の真実」】昭和49(1974)年には有名な“第一次オイルショック”(注1)があって、世の中は混乱していた。でも僕は競馬中心の生活だったから、そんなことには無頓着だった。当時の車は6000CCのポンティアック。今考えればあんなガソリン食いの車を、よくあの時代に乗っていたよね。

 同じ年に無敗で皐月賞へ挑戦したキタノカチドキもものすごい“排気量”だった。クラシックが近づく頃には前年のハイセイコーの強さとダブる部分があったのか、怪物と呼ばれた。でも僕にとってあの馬は決して怪物ではなかった。

 究極の癖馬——。気性の難しさは半端じゃなかった。

 通常、競走馬はレース後半で苦しくなると外へ膨れるケースが多いけど、カチドキはしんどくなると左へ切れ込んだ。車のハンドルが突然左に回って操作不能になる感じ。そんな狂気が皐月賞前のスプリングSでも顔を出した。ゴール板を過ぎた後急に左へ逃げて、右回りの中山競馬場の1コーナーを回り切れなかったんだ。

 だからカチドキの場合勝った喜びはほとんど記憶に残っていない。「レースが無事に終わって良かった」という安堵の気持ちだけ。それほど危険をはらんだ馬だった。

 そんな馬が皐月賞で日本初のシード馬(注2)になった。同枠取り消しの影響を避けるため、ということだったけど、実質的には競馬会がこの馬が1番人気だよ、と太鼓判を押す制度。当時の心境?「えらいことになっちゃった」だよ。僕にとってはすごい重荷だった。しかもレース前に最悪の事態が生じた。厩務員春闘だよ。あの年は大きなゼネストが全国各地で行われて、交通機関は止まるわ、学校は休みになるわ。大変だった。

 皐月賞もストライキの影響で延期、延期…結局、3週間後に中山じゃなく、東京競馬場でやることになっちゃった。

 ちなみにこの年じゃないけど春闘が激しい時代は学生運動さながら京都競馬場や栗東トレセンの門の前にバリケードが張られた。人間を中に入らせないようにするためだけど、こっちだって必死。騎手は稽古をつけないと立場上しゃれにならないからね。だから壁をよじ登って“侵入”した記憶がある。でも、何とか馬にまたがっても缶をガンガン叩いて馬を驚かすわ、馬場入りを阻止するわ…。運動するのもひと苦労だった。

 ただ、そんなこんな時代を経て以後の社会が住みやすくなり、働きやすくなった。そう思えば仕方のないことだったんだと今は思うよ。

 話は戻って、そんな最悪の状況下で迎えた皐月賞——。5月3日午後3時半。東京競馬場で運命のゲートが開いた。

※注1=1973年10月に起こった第四次中東戦争の影響でアラブの石油輸出国が原油生産量を削減、これにより石油価格が高騰、経済が混乱した。日本ではトイレットペーパーや洗剤の買い占め騒動が起き、テレビの深夜放送が休止された。

※注2=人気が集中するであろう馬(おおむね単勝支持率30%)を連勝馬券の単独枠に指定し、他馬と“隔離”する制度。当時の連勝は枠番式のみで、人気馬が取り消し、除外になった場合払い戻しが行われない(同枠に他馬がいるため)ことが問題となり、導入された。後に単枠指定制度と呼び名が変わり、馬連式誕生の1991年まで続いた。