【JRA】記者が思うビワハヤヒデと浜田光正元調教師

2020年07月22日 15時00分

93年菊花賞を制したビワハヤヒデ

 我が家のシューズボックスに現在も居続けるレッド・ウィングのブーツ。コイツがどうしても捨てられない。極貧時代に買った4万円弱の代物だから? それも確かにあるかもしれないが、一番の理由はコイツが〝思い出の品〟だから。ビワハヤヒデが東上した93年の共同通信杯。いずれは名馬として名をはせるであろう彼を迎え入れるため、国分寺のマルイでこの靴を買い、早朝から東京競馬場に並んで指定席をゲットした。

 もう時効だからいいだろう。当時は〝馬券を買ってはダメ〟な大学生。レッド・ウィングのブーツはビワハヤヒデの馬券で回収する予定で、実際にそれに近い金額を回収できたのだが、馬単も3連単もある現在では結果も違ったはず。ビワハヤヒデが負けるなんて、まるで思ってなかったのだ(勝ったのはマイネルリマークでビワハヤヒデはアタマ差の2着)。

 記者がビワハヤヒデの姿を実際に見たのは93年の共同通信杯、ダービー、有馬記念、そして翌年の天皇賞・秋の4回。いずれも勝つことができなかった。だが、共同通信杯以外は本命視もしておらず、有馬記念では名勝負と語り継がれるトウカイテイオーを全力で応援していた。その理由は今でも分からないが、共同通信杯のショックが尾を引いてしまった…ということにしておこう。抜群の安定感あるレース運びは隙がなく、崩れてほしいのになかなか崩れない〝憎きライバル〟というイメージだった。派手な追い込みで人気を博した同期のライバル・ナリタタイシンとは何とも対照的だ。しかし、競馬記者となり、本紙予想を担当するようになった現在ならどうだろう? これほど頼りになる存在はいない。

 やがて競馬記者の仕事に就き栗東トレセンに配属され、取材をする機会にも恵まれた浜田光正元調教師は、その見た目通り温厚な人だった。もちろん、厩舎従業員には厳しかったようだが、それは温厚な人柄で知られる橋口弘次郎元調教師も同様。調教師という仕事には必要なことなのだろう。

 そして、取材に対してはとても協力的な人だった。浜田元調教師の出身地は東京。「故郷に錦を飾りたい」が口癖で、同師の人柄を知る報道陣の多くが関東圏のGⅠに出走する管理馬を応援していた。もちろん、すでにトレセン記者となっていた記者も同じ。それなのに…勝てなかった。桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯のどれもが素晴らしい勝利だったファレノプシス。しかし、彼女にはオークスこそ勝ってほしかった(結果は3着)。ファレノプシスの母キャットクイルはビワハヤヒデの母パシフィカスの妹。こんな血統背景があった。

「ビワハヤヒデで勝てなかった分まで――」という思いは今でも強烈な記憶として残っている。