【思い出のGIレース=平成24年「天皇賞・春」】

2019年04月22日 21時32分

左端が勝ったビートブラックで右端が11着と惨敗したオルフェーヴル

 平成24(2012)年の「第145回天皇賞・春」を勝ったのはビートブラック。しかし、記者の記憶に残っているのは、直線を待たずに敗色濃厚となった前年の3冠馬オルフェーヴル(11着)の姿だ。

 そのキャリアを通じ、惨敗したレースは10着だった京王杯2歳Sと、天皇賞・春の2戦のみ。荒々しい気性のイメージと反比例する成績を残した馬の惨敗は何が理由だったのか? その答えはひとつではないだろう。しかし、あくまで個人の見解として言わせてもらえば、阪神大賞典の逸走による調教再審査の影響──。これが大きかったと思っている。

 現在では当たり前になったノーザンファームしがらきでの短期放牧。その恩恵を最初に受けた名馬がオルフェーヴルだ。そして、レース後の“ガス抜き”をするきっかけとなったのが、前述した京王杯2歳Sだった。

 レース後のオルフェーヴルにはリセットが必要──。そう判断した陣営は同じような気性の難しさを抱えていた兄ジャポニズムを参考にし、レース→NFしがらき→レースという循環を生み出した。

 しかし、再審査を受けた天皇賞・春に向かう調整過程ではそれができなかった。リフレッシュの期間をもらえず、慣れないダートのEコースで調教(再審査がEコースで行われるため)。審査に合格し、普段と同じ坂路調教へとパターンを戻しても、リズムを崩したオルフェーヴルの走りから“硬さ”が消えることはなかったのだから、その影響は大きかったと考えるべきだろう。

 オルフェーヴルを語るとき、池江調教師は「ウチの厩舎に入って、森澤(助手)が担当していなかったら、あの馬の活躍はなかった」と常にこう言う。母オリエンタルアートの産駒で成功と失敗を経験し、この血統を知り尽くしていたからこそ、オルフェーヴルは大成した。それは歯車が少しでも狂えば、レールを大きく逸脱してしまう可能性があったことを意味している。

 その状況がわかっていながら、潜在能力の高さですべてを克服できると判断した◎の決断。浅はかだったと言わざるを得ない。

 どんなスポーツ選手でもコンディションが整わなければ、結果を出すことはできない。それは競走馬の世界も一緒なのだ──。そんな認識を常に持ちながら、現在もトレセンに通っている。

(大スポ本紙担当・松浪大樹)