【魔法のムチ「武邦彦の真実」12】豊が競馬学校に入学!古い時代の僕は引退を決意

2016年08月12日 16時19分

【連載12:魔法のムチ「武邦彦の真実」】昭和52(1977)年の有馬記念。レース後は充実感で満ちあふれていた。2着に負けた悔しさは全くなかった。トウショウボーイをねぎらい、テンポイントと鹿戸明君の勝利をたたえた。

 テンポイントとトウショウボーイは有馬記念の戦いだけに限れば1勝1敗。五分の結果に終わった。僕はこれで良かったんだと今でも思っている。トウショウボーイはテンポイントがいたから強くなれたし、テンポイントもトウショウボーイがいたから強くなれた。しのぎを削るライバルが存在したから、自分たちを磨くことができた。最後の戦いではお互いがすべてを出し尽くした。

 もう結果じゃなかった。勝ち負けを超越した戦いだったように思う。だからこそ、2度目の有馬では負けたけどすがすがしい気分だった。

 あの激闘から7年後の昭和60(1985)年2月、僕はムチを置いた。

 通算1163勝。

 今と違って僕が新人だった時代はレース数が少ないし、出走数も極端に少なかった(注)。それに交通機関も発達してなかった。だから、小倉へ行けばずっと小倉でしか騎乗できない。今のように土曜は札幌、日曜は阪神なんてことはできなかった。それを考えれば豊(武豊)の3000勝にも匹敵する数字じゃないかな(笑い)。

 ちなみに29年間のジョッキー人生で一度もリーディング1位を取れなかったけど、実は幻のトップがあったんだ。昭和44(1969)年に79勝を挙げたんだけど最後の最後で失格してしまった。当時は一度でも制裁を食らうとそれで権利を失う。関西エリアでのリーディングだったけど、あの時は悔しかったね。

 勝負の世界には潮時がある。僕が引退を決める頃には河内洋が活躍し始めていた。僕らのようなベテランがいつまでもいると上が詰まってしまう。下から上がってくるこれからのジョッキーたちのためにも引退しよう。そう決断した。

 引退にはもうひとつ理由があった。昭和59(1984)年には豊が競馬学校に入学していた。自分の息子が競馬の世界に入る。親子で対決するのも恥ずかしいし、競馬界にも新しい時代がやってくる。そんな予感があった。だから古い時代の僕は引退した。予想通り新しい時代がやってきた。バブル景気とともにJRAは売り上げを伸ばし、競馬本体も変わった。女性ファンが競馬場へ足を運ぶようになった。そんな時代の変わり目に騎手デビューした豊だけど、実はこの世に存在しなかったかもしれないんだ。

※注=“武邦彦騎手”がデビューした1957年、中央競馬のレースに出走した馬の数は1467頭。対して2009年は1万982頭だった。