【八重樫東氏 内気な激闘王(13)】  負けたらもうボクシングを続けられない。プロ2度目の世界挑戦前、そう覚悟していた。

 2011年10月24日、東京・後楽園ホール。WBA世界ミニマム級王者のポンサワン・ポープラムック(タイ)との一戦はあり得ない展開でスタートした。当時メディアには言わなかったが、試合前に右肩腱板損傷のケガを負い、麻酔を打って試合に臨んだ。序盤は右が使えない。一体どうやって勝つのか? 自分でも半信半疑のまま試合が始まった。

 映像を見ると分かるが、1ラウンド(R)は左しか使っていない。右を打つのが怖く、左手と足でさばくスタイルに徹した。どのみち、いつかは打ち合いになるので、序盤はとにかくラウンドをこなすことを考えた。向こうはファイターなので距離をつぶされたらオシマイ。「まだ足が動くか」「距離は取れるか」と慎重に考えながら戦っていた。

 案の定、中盤から打ち合いになった。8R、向こうが下がったので一気にたたみかけた。コーナーに追い詰め、このまま打ち続けたらレフェリーが止めるだろうと思って勝負をかけたら、右カウンターを食らってしまった。スコーンと腰から崩れ落ち、尻モチをつきそうになった光景を今でも覚えている。瞬間的に「ああ、やっぱりオレは世界王者になれない人間なんだ」と思った。捨て身の打ち合いをしながら内心では悲観的なことを考えていた。

 そこから先はよく覚えていない。迎えた10R、ここで引いたら絶対に負けると思って必死に攻めていったらレフェリーが試合を止めた。「止まった! やった!」と安堵し、リングにあおむけに寝転んだ。すると天井から何か大きなものが降ってきたように感じた。なんと大橋(秀行)会長が覆いかぶさったのだった(笑い)。あの奇妙な情景は今も目に焼き付いて離れない。

 勝利の直後「世界王者になった!」という喜びより「まだボクシングができる」という安心感のほうが大きかった。負けたら終わりと思っていたので、何とか“延命”できた感じだ。

 ただ、どうしても嫌だったのは知名度が上がってしまったこと。街で「チャンピオン」って声をかけてくださるのは本当にありがたいのだけど「すごい人」という扱われ方が嫌でたまらなかった。幼少期から自分に自信がなかった僕は目立ちたくないし、有名になるのはごめんだった。本当に放っておいてほしかった。ひっそりとボクシングできればよかった。

 しかし、皮肉なことにその後、さらにボクシングファンの注目を浴びることになる。(WBC世界ミニマム級王者の)井岡一翔君と戦うことになったのだ。

 ☆やえがし・あきら 1983年2月25日生まれ。岩手・北上市出身。拓大2年時に国体を制覇し2005年3月に大橋ジムからプロデビュー。11年10月、WBA世界ミニマム級王座を獲得し岩手県出身初の世界王者になる。12年6月にWBC同級王者・井岡一翔と史上初の日本人世界王者同士の統一戦で判定負け。13年4月にWBC世界フライ級、15年12月にIBF世界ライトフライ級王座を獲得し3階級制覇を達成。20年9月に引退。プロ通算35戦28勝(16KO)7敗。身長162センチ。