【八重樫東氏 内気な激闘王(10)】プロボクサーを志した時は「世界王者になってやる!」という野望は一切なかった。コンプレックスを抱えて生きてきた僕は、何をするにもハードルは低い。とりあえず、何かのベルトさえ取れれば…くらいのモチベーションだったので、デビュー5戦目(2006年4月3日)に東洋太平洋ミニマム級王座のベルトを取った時はすごくうれしかった。

 結果は5ラウンド(R)KO。4戦目(10R判定勝ち)にダラダラした試合をしてしまったので、僕は1Rの中で波をつくり、抑揚をつけることを心がけた。平坦な試合にはせず、随所にテンポアップさせて攻撃を仕掛けて試合を組み立てたら5Rに「山」が来た。流れの中で出したパンチが当たって、相手が倒れた。つまらない試合をしてしまった4戦目の反省をきっちり生かし、勝つことができた。

 勝利の直後「これでプロになって最低限の証しを残せたな」と安堵した。自分が年を取って「オレ、昔プロボクサーだったんだ」って誰かに話す時、やっぱり何らかの証しが欲しかった。日本王座でも地域王座でもいいから「ベルト」さえ手にすれば、胸を張って「ボクサーだった」と言える。だから「次は世界のベルトだ!」なんていう大きな夢はなかった。

 実際にリング上でベルトを見た時の気持ちは今も鮮明に覚えている。この試合は決定戦だったのでベルトの現物がなく、トレーナーの松本(好二)さんが用意してくれた東洋太平洋ベルトを一時的に借りた。デザインが漫画「はじめの一歩」の宮田一郎が腰に巻いていたものと同じで「おお、一緒だ!」とかなり興奮していた。だが、実際は不自然なくらい余裕ぶっていた。興奮したり必死になっている姿がカッコ悪いって考えるのは若いころにありがち。だから僕はひょうひょうとして、自分を大きく見せようとしていた。内心とは全く逆だ。そういう意味でもまだ若かったと思う。

 会場(横浜文化体育館)には黒沢尻工高(岩手)ボクシング部の同期が応援に来てくれた。次の日は横浜の中華街でお祝いをしてもらったが、試合はスポーツ新聞に大きく載るわけでもなく、地元の新聞が「県民の活躍」として報じた程度。翌日から景色が変わったということもなく、特別に自信がついたわけでもなかった。

 リアルにうれしかったのは賞金で奨学金を返済したことだった。僕はスポーツ推薦で拓大に入学して学費は全額免除だったが、生活費は奨学金とバイト代でまかなっていたのだ。初めてベルトを取って借金返済! もしかしたらベルトを取ったこと以上に気持ち良かったかもしれない。