【八重樫東氏 内気な激闘王(4)】 幼いころからコンプレックスの塊だった僕が、なぜ世界王者になれたのか。その要素の一つが、中学のバスケットボール部時代にある。

 1995年、北上市立北上中(岩手)へ進学すると、漫画「スラムダンク」の影響もあってバスケ部に入った。小学生の時に野球と並行してミニバスを習っていたが、約10人いた同学年の中でも決して上手な方ではなかった。体が小さい僕はポイントガードで、3年生ではキャプテンの控え。結局、3年間スタメンには入れず、ルーズボールを必ず取りに行くようなガッツを買われて起用されていた感じだった。

 相変わらず自分に自信がなかったため「試合に出たいけど出たくない」という心境。もしシュートを外したらどうしよう…とおびえていて、ボールを持つことが怖かった。最後にポイントガードが打つフォーメーションがあるが、その指示が出ると恐怖で足がすくんだ。とはいえ、ボールをもらった以上は責任を果たさないといけない。そこで奮起した。毎朝、学校の始業前に体育館へ行き、1人でシュート練習を繰り返したのだ。

 2年生ごろから始めた1人だけの朝練は、卒業するまでほぼ毎日続けた。もちろん部員は誰も知らない。唯一、知っているのは体育館のカギを開けてくれた用務員さん。その方がバスケ部の監督だった。こんなことを言うと監督へのアピールと思われそうだが、決してそうではない。ただ上手になりたかっただけで、そもそも僕はアピールして目立ちたいという陽キャな人間ではない。ボールをもらった時、いかに不安を打ち消すか。その一心だった。

 何より、1人でシュート練習していた自分がすごく好きだった。僕は自信家じゃないのでナルシストとは違うが、誰にも知られず、自分と向き合って努力を重ねる時間が大好きだった。たぶん漫画の影響だろう。「スラムダンク」の桜木花道と自分をダブらせ、ハッピーエンドを信じて疑わなかった。努力は報われる、頑張れば成功すると。つくづく子供って単純だなあと思う。

 結局「スラムダンク」では全国制覇の目標を達成できず、僕もレギュラーになれなかった。でも1人で努力を重ねた、あの時間だけは「今」につながっている気がする。ああいう経験が人生の中で何個かあると、それだけで人は頑張れると思う。夢中になれるなら何でもいい。一つのことに打ち込んでいる、自分が好きになれる瞬間がある。その時間をたくさんつくることで「頑張れる」という人格が形成されると思う。

 ネガティブだった僕は「頑張れる」という喜びを知り、98年に岩手県立黒沢尻工高に進学。そこから僕の人生はボクシング一色に染まった。

 ☆やえがし・あきら 1983年2月25日生まれ。岩手・北上市出身。拓大2年時に国体を制覇し2005年3月に大橋ジムからプロデビュー。11年10月、WBA世界ミニマム級王座を獲得し岩手県出身初の世界王者になる。12年6月にWBC同級王者・井岡一翔と史上初の日本人世界王者同士の統一戦で判定負け。13年4月にWBC世界フライ級、15年12月にIBF世界ライトフライ級王座を獲得し3階級制覇を達成。20年9月に引退。プロ通算35戦28勝(16KO)7敗。身長162センチ。