ボクシングのWBA世界ミドル級スーパー王者の村田諒太(帝拳)と、IBF世界ミドル級王者のゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン)による“世紀の一戦”の実現が待たれている。

 村田は断るまでもなくロンドン五輪ミドル級金メダリスト。日本人金メダリストとして、初めてプロの世界王者となった。日本人として初めてボクシングの金メダリストとなったのが、くしくも1964年、東京五輪のバンタム級金メダリスト・桜井孝雄(中大→三迫=故人)だった。

 桜井は現千葉・佐原高校でボクシングを始めると頭角を現し、60年にインターハイを制覇。中大に進み、屈指のテクニックとカウンターを誇った。

 予選を順調に勝ち進んだ桜井は決勝戦(10月23日)で鄭申朝(韓国)と対戦。初回1分過ぎにダウンを奪うと、計4度のダウンを奪い、2回1分18秒RSC(レフェリーストップコンテスト)で完勝した。

 本紙の特別記者として試合をリポートしたのが、“カミソリパンチ”と呼ばれた希代のハードパンチャー、世界フライ級2位の海老原博幸(協栄)。海老原は前年9月にポーン・キングピッチ(タイ)から初回KOで王座奪取。白井義男、ファイティング原田に続き日本人として3人目の世界王者となるも、64年1月にバンコクのリマッチで地元判定に泣き王座を失ったばかりだった。

 当時、王座返り咲きを狙っていた海老原は「桜井君の快挙は根性と自信。この2つが技巧と強打を生み、金メダルへつながった。少しも危険を感じさせず攻撃の手を緩めなかったところなどプロでも十分に通用する。常に右のリードで射程距離を保ち、カンのいい動きでここぞと思う時にカウンターを決めるあたりは天才的素質と努力の積み重ねだった。桜井君の金メダルはどの種目より高価なもの。日本のボクシングは五輪に参加するようになって、ただ1個のものだからだ。プロの王座に匹敵する、生涯の誇りに残る偉大なものだ」と語っている。

 また本紙のリポートによると、準決勝で痛めた両コブシが負担となったが、桜井は「手が心配だったけど試合になったらすっかり忘れてしまった。今度はメキシコ大会を目指し、この一瞬の喜びをもう一度味わうことが目標です」と五輪連覇を誓っている。

 しかし日本初の金メダリストをプロが黙って放っておくわけがない。当時、プロとアマの交流はほとんどなく、激しい争奪戦の末、桜井は大学を除籍される形で三迫ジム入りした。契約金は当時では破格の500万円とされている。

 65年6月にプロデビューして22連勝をマークした後の68年7月には、2階級制覇を達成した世界バンタム級王者の原田を破ったライオネル・ローズ(豪州)に挑戦した。桜井は2回に左カウンターでダウンを奪いながらも、その後はアグレッシブさを欠き、僅差の判定0―2で敗れた。「打たせずに打つ」という哲学を貫いた結果だった。まだ「根性主義」主体の70年代では、桜井のボクシング哲学は早過ぎたのかもしれない。

 結局、2回目の世界王座挑戦は実現することはなく、東洋太平洋バンタム級王者のまま、71年6月に引退。その後はジムを開設して後進の指導に当たり、2012年1月に70歳で亡くなった。

 世界王座こそ手中にできなかったものの、日本ボクシング界初の金メダリストという金看板は永遠に色あせることはない。桜井、村田に続く金メダリストの登場に期待したい。(敬称略)