あまりにも早過ぎる。がんで闘病中だった格闘家の山本“KID”徳郁さんが18日に死去した。41歳だった。KIDさん主宰のジム「KRAZY BEE」が公式ツイッターで発表した。日本格闘技界の発展に尽力した“神の子”は約2年間、病と闘い続けたが、異国の地で帰らぬ人になった。公にされなかった壮絶な闘病生活と本当の病名、そして完治を目標にし、将来的に夢見たものは何だったのか。志半ばで迎えたKIDさんの“最期”を公開し追悼――。

 KRAZY BEEはこの日、「山本KID徳郁を応援して下さった皆様へ」とし「山本KID徳郁(享年41歳6ヶ月)が、本日9月18日に逝去致しました。生前に応援、ご支援をして頂きました関係各位、ファンの皆様に本人に変わり御礼申しげます」(原文ママ)とツイッターに記した。

 KIDさんは8月26日に自身のインスタグラムを通じ、がん闘病中であることを告白。「絶対元気になって、帰ってきたいと強く思っていますので温かいサポートをよろしくお願いします!」と再起を誓うコメントを出した矢先だった。

 病気の詳細については明らかにされていないが、当初噂になったのは皮膚がんだった。KIDさんが全身にタトゥーを入れていることから臆測を呼んだ模様だが、実際は違う。関係者によると、約2年前から胃がんを患っていた。

 大病を公にすることはないまま、インターネットテレビ「AbemaTV」の格闘技ドキュメンタリー番組「格闘代理戦争」に第1弾から出演した。しかし今年4月にスタートした第2弾の出演時には見るからにやせており、ファンや格闘技関係者の間で「体調が悪いのではないか」とささやかれ始めた。その後は徐々に番組も欠席するようになり、6月23日に行われた第2弾の試合でも会場に現れなかった。

 このころには、がんであることが噂されるようになっていた。別の関係者によると、6月からはグアムに渡り治療を受けていたが、同地で最期を迎えることになった。

 2001年にプロ格闘技デビューしたKIDさんが全国区になったのは、04年大みそかのK―1「Dynamite!!」で魔裟斗(39)とK―1ルールで激突した一戦だ。超高速で真正面から打ち合う2人のファイトは、格闘技史上に残る名勝負となった(試合は魔裟斗の判定勝ち)。同イベントはNHK「紅白歌合戦」の裏番組では史上初となる平均視聴率20%超え、この一戦の瞬間最高視聴率は31・6%を記録した(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。

 KIDさんを発掘し、スターに押し上げた元K―1イベントプロデューサーの谷川貞治氏(56=巌流島プロデューサー)は「ショックは大きいですよ。私にとって思い入れがある選手でしたから。当時はヘビー級が中心だった格闘界で、軽い階級をメジャーにしたのはKIDくんのおかげ」と哀悼の意を表した。

 当時、KIDさんから将来の夢を聞いたことがある。「『自分のジムをたくさんつくりたい』と言っていた。子供や弟子を大切にする選手でしたから。身内で五輪や格闘技でトップを取り、山本一族の強さを世に知らしめたいという思いだったのでしょう」(谷川氏)

 プロ格闘家として一時代を築きながら、レスリングに復帰して08年北京五輪出場を目指したのも、父の郁栄さんが1972年ミュンヘン五輪で不可解な判定があったとされ、金メダルを取れなかったことが大きい。ジムからの金メダリスト誕生は悲願だった。

 また、がんを克服してからの目標もあった。日本のリングへの復帰だ。米国の総合格闘技イベント「UFC」には11年2月から参戦。KIDさんから契約を終了させることも可能だったようだが、あえてその方法を取ることはなかった。白星に恵まれなかったことで「本人の中では『UFCで結果を残した上で、ゆくゆくは日本のリングに復帰したい』と考えていたようだ」(関係者)。

 夢に向けて病と闘い続け、志半ばで散ったが、“神の子”の伝説は永遠に語り継がれる。 

☆やまもと・きっど・のりふみ=本名岡部徳郁(旧姓山本)。1977年3月15日生まれ。神奈川・川崎市出身。父はミュンヘン五輪レスリング代表の山本郁栄氏、姉の美憂と、大リーグ・カブスのダルビッシュ有投手の妻で妹の聖子さんは元レスリング世界女王。幼少期からレスリングを始め、日本のトップクラスとして活躍。山梨学院大を中退後、修斗のリングでプロデビュー。2004年にK―1ミドル級に進出し、同年大みそか決戦では魔裟斗と激闘を展開した。05年大みそかにHERO’Sミドル級王座を獲得。06年に北京五輪出場を目指してレスリング復帰を表明。07年1月の全日本選手権に出場したが、右ヒジを脱臼して準々決勝敗退。その後はDREAMを経て11年から米UFCに参戦。最後の試合は15年2月28日のローマン・サラザール戦(UFCロス大会)。163センチ。