【今週の秘蔵フォト】どんな業界にも「神様」と呼ばれる特別な存在がいる。漫画界では巨匠・手塚治虫が、1989年2月に60歳で亡くなってから、33年が経過してもなお唯一無二の「漫画の神様」として君臨し続けている。この事実ばかりは地球上の漫画家全員が立ち向かっても、絶対に覆らないであろう。

 75年6月21日付本紙では「ブッダ」「動物つれづれ草」の2作品で「第21回文藝春秋漫画賞」を受賞した際の貴重な記念インタビューが掲載されている。

 本当にうれしそうですねという問いには「ええ。念願でしたからね。ここ十数年、ひそかに狙っていたんですよ。いまさら、なんてよく言われるけどとんでもない。実はこの賞をもらいたくて用意していた作品もあったんですよ」と満面の笑みを浮かべた。

 ちなみに同年には「ブラック・ジャック」で「第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞」も受賞しているが、文藝春秋の賞には特別な思い入れと執着心があったのだろう。

「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「マグマ大使」「ロック冒険記」などの名作を量産し続け、もはや日本漫画界では大家的存在だったが、大作を手掛けた時の研究熱心さと冒険心は超人的だった事実も明かされている。

「ジャングル大帝」を描いた時は1年間、図書館に通い詰め「アポロの歌」ではタブー視されていたセックスにも切り込んだ。「日本のウォルト・ディズニー」を目指して「千夜一夜物語」「クレオパトラ」などのアニメーションにも手を染めた。まだ戦後の1949年には少年漫画に初めてキスシーンを取り入れた。

「あの時は参りました。PTAとかいろんなところから抗議の手紙が来ましてね。子供の敵、文明の敵、アメリカへ行ってのたれ死ね!とまで。あの時は極悪人扱いでしたよ」と振り返る。

 ディズニーに影響を受けたとされるが、没後には逆にディズニー映画に大きな影響を与えたことは、特に作品名を出さずとも周知の事実だろう。

 当時は2年前にアニメ部門の虫プロが倒産。手塚が劇画に負けた!との論評には、反骨心が燃え上がり「こんちくしょう!という気持ちで倍の仕事をした」と明かしつつ、この年になって新たな後援者が現れて虫プロを再建させたという。

 インタビュー当時の仕事量は週刊誌2本、隔週誌1本、月刊誌1本と多忙を極め、週3日は半徹夜で受賞後はさらに忙しくなったと明かした。「女房のために旅行したいですね。今回の受賞を一番よろこんでくれたのも女房だし、何といっても手塚作品の一番の理解者ですから」と愛妻への優しさも見せた。

 ライフワークとなった「火の鳥」は当時、描き始めてから10年が経過していた。「これだけは死んでもやらなくちゃ」と語る横顔は、まさに「漫画の神様」の神々しさに満ちていた。ここから約14年間、死の直前まで手塚は超人的な創作力で数多くの大作と名作を積み重ねていった。 (敬称略)