【直撃!エモPeople】リンダは古希でも「どうにもとまらない」。歌手デビューから55周年を迎えた山本リンダ(70)が“コロナ後”へ向けて動きだした。活動の場は縮小されたままだが、昨年就任した日本歌手協会の理事として、歌って踊る現役歌手としても先を見据えている。自身の半生を秘話と涙で振り返りながら、コロナ禍で苦境に立たされた人々へ、元気を届ける。

 12歳でモデル、14歳でテレビデビュー、15歳で「こまっちゃうナ」で歌手デビュー、100万枚超を売り上げ、その後も「どうにもとまらない」などが大ヒット。息の長い順風満帆な芸能生活を送っているとも思えるが、実は苦難も多かった。

「米国人の父と大阪出身の母のハーフとして生まれ、父は朝鮮戦争で私が1歳になる前に戦死したので母は大変だったと思います。イジメられることもあったけど、助けてくれる子もいました」

 母は「気にしちゃいけないよ。これからの世の中は世界の人が仲良くしていかないといけない。『みにくいアヒルの子』のアヒルも最後は白鳥になるでしょ。あなたは白鳥なのよ。自分らしく、自信を持ちなさい」と抱きしめてくれた。

 母のレコードを聴き、歌って踊るうちに歌手になりたいとの思いが芽生え、近所のお姉さんから「大きくなったらモデルになるといいわね」と言われ、中学入学前、ファッション誌の少女モデルに応募し合格。快進撃が始まる。

 NHKの音楽番組「夢のセレナード」で日本初のカバーガールに抜てきされ多忙になり、歌のレッスンを休みがちになっていたら、マネジャーに「君はそんなに簡単に信念を曲げられる人なのか!」と怒鳴られ、ハッとした。歌のレッスンを再開すると幸運が舞い込んだ。

「遠藤実先生の前で2曲歌うと、すぐに帰りの車の中で曲を書いてくださった。雑談の中で『ボーイフレンドはいるの?』と聞かれて、緊張のあまり思わず出たのが『困っちゃうな~』だったんです」

 1966年、デビュー曲「こまっちゃうナ」の大ヒットを受け全米6都市公演をすると、当時人気だった英国の人気モデルを重ねて“ジャパニーズ・ツイッギー”と呼ばれた。ツイッギー本人とは67年の来日時にファッションショーで共演。NHK紅白歌合戦にも初出場を果たした。

 これが第1次リンダブーム。だが、その後、だんだんとヒット曲が出なくなり、苦難の日々が続いた。紅白初出場時に「来年も出られるんだろうか」と不安が頭をもたげた予感が現実になった。

「コンサートでは空席が増えてきて、歌番組で歌うのも放送のないアトラクション枠だったり。全国のキャバレーやスナックなどを回る日々。舌っ足らずな声と言われた『こまっちゃうナ』からイメージチェンジができなかったんです」

 71年、ミノルフォンレコード(現・徳間ジャパン)からキャニオンレコード(現・ポニーキャニオン)に移籍すると状況は好転。社運をかけて売り出す歌手を決める際、決め手になったのはリンダの根性だった。

 前年の70年、大阪万博会場のミノルフォンのパビリオン前。リンダは雨の中、びしょ濡れになって呼び込みの声を張っていた。それを見ていたフジテレビのスタッフが推してくれた。「がんばっていれば誰かが見てくれる」と実感した。

 ただし、売り出しには条件があった。キャニオンは「山本リンダのイメージをバラバラにして、立て直してほしい」と作詞家・阿久悠(2007年没、享年70)、作曲家・都倉俊一(73)の両氏に依頼。リンダは大人への脱皮が求められた。

 当初「恋のカーニバル」というタイトルだった「どうにもとまらない」の詞について、阿久氏は「男尊女卑の世の中は良くない。これからは女性上位の時代。リンダにそれを実現させたかった」と語った。

 リンダは「ずっと生まれ変わりたいと強く思っていたので、曲をもらったときには心が躍って本当にありがたいと感激しました。<ああ蝶になる ああ花になる~>という詞には、日本が平和な国になるには女性が輝いていなければいけないという阿久先生の思いがある。感銘を受けました。同時に“これがヒットしなければ私は歌手としてダメだ”と覚悟もしました」と感謝の涙を流しながら振り返った。

 ピュアで強い気持ちを今も持ち続けるリンダはその後“第3次ブーム”まで巻き起こす。(前編)

 ☆山本リンダが理事を務める一般社団法人「日本歌手協会」(田辺靖雄会長)は29、30の両日、毎年恒例の「歌謡祭」(計5回公演)を東京「中野サンプラザホール」で開催する。コロナ禍で同協会は「歌で元気を取り戻そう!プロジェクト」と題し「歌の学校」を開催。リンダも講師を務めたレッスンのDVDも発売中だ。

 ☆やまもと・りんだ 1951年3月4日生まれ。福岡県北九州市出身。63年、ファッション誌「装苑」でモデルデビュー。65年、NHKの音楽番組「夢のセレナード」のカバーガールに抜てき。66年、デビュー曲「こまっちゃうナ」が100万枚を超えるヒットとなり“第1次ブーム”。68年「てなもんや三度笠」(ABC)レギュラー出演。71年「仮面ライダー」レギュラー出演。72年「どうにもとまらない」、73年「狙いうち」などがヒットし“第2次ブーム”。82年、初レビューショー。89年、シャンソンの祭典「パリ祭」出演。91年、若者を中心に“第3次ブーム”が湧き起こる。2001年、7歳年上の大学教授と結婚。