ノンフィクション作家、ジャーナリストとして「知の巨人」とも呼ばれた立花隆(本名・橘隆志)さん(享年80)の死去が報じられ、関係者からは追悼の声が上がった。文藝春秋時代の後輩で本紙「マンデー激論」でおなじみの「月刊Hanada」花田紀凱編集長(78)は立花さんとの秘話を公開した。

 立花さんは4月30日、急性冠症候群のため、入院先の病院で死去した。東大文学部仏文科卒業後の1964年に文藝春秋に入社するが、わずか2年半で退社し、東大文学部哲学科に再入学。在学時に立花隆名で文筆活動を開始した。

 2年後輩の花田氏は「立花さんは、なぜ会社を辞めたのかを僕には『仕事量と給料が合わない』と言ってましたね。週刊文春では下っ端でいろんな小間使いをさせられ、関心のないプロ野球の取材をさせられたのも嫌だったようですね」と語る。

 74年、立花さんは「田中角栄研究 その金脈と人脈」を月刊文藝春秋に発表し、田中元首相の退陣につながったことで「調査報道」のスタイルを確立したジャーナリストとして名を上げた。

 花田氏は同誌デスク時代、立花さんと「日本共産党の研究」(75~77年)で取材チームを組んだ。会議室を占拠して“立花部屋”と呼ばれた。

「当時、立花さんは新宿ゴールデン街で『ガルガンチュア』というバーをやってて、夜型人間。午後6時ごろ、食材を抱えて出勤して、まず狭い給湯室で中華料理を作る。それを編集部の机に並べて、スタッフが群がって食べる毎日。給湯室はギトギトでいつも怒られてました。食後は皆でカードゲームのUNOをやって僕らは帰り、その後、立花さんは残り、取材記者のデータを読み込んでました」(花田氏)

 立花さんが題材とするテーマはその後、政治だけでなく社会事件、宇宙、脳死、生命科学、最先端科学などに及びサイエンスライターとも呼ばれた。

 立花さんは本紙にも数多く登場。94年には「臨死体験」刊行の際、故石原裕次郎さん(享年52)が昏睡状態から目覚めた時の兄・石原慎太郎氏とのエピソードを交えて解説した。

「裕次郎は『三途の川の河原の石もすすきの穂もまぶしく白く光って、今までどこで見た川よりもきれいだった』と話したそうです。人間が昏睡状態になった時の臨死体験をする確率は3割。有名人が体験しても不思議はないわけです」

 大好きな猫が外壁にあしらわれていることで有名な東京・文京区の事務所“猫ビル”の内部は大量の本であふれていた。花田氏は「“知の巨人”と呼ばれたのも、好奇心がものすごく強くて根っからのジャーナリストだったから。要求度が高かったので、一緒に仕事する人は大変だったけど、やりがいは皆感じていた。雑誌ジャーナリズムでの調査報道の手法を確立した功績はとてつもなく大きい」と追悼した。

 葬儀は家族のみで営まれ、遺骨は樹木を墓標にする樹木葬で埋葬されたという。