ちあきなおみの「喝采」(1972年)、細川たかしの「北酒場」(82年)で、2度の日本レコード大賞を受賞した作詞・作曲家の中村泰士さんが、20日午後11時50分、肝臓がんのため亡くなった。81歳だった。

 9月半ばに「調子が悪い」と不調を訴えた中村さんは、10月には「外出するのもしんどい」とこぼすようになり、同月14日に入院。肝臓がんと分かり、抗がん剤治療を開始した。

 2週間後に退院し、レコーディングやライブにも参加したが、今月5日に行われたクルーズ船でのライブステージ後に「入院したい」と訴え、再び病床へ。19日に容体が急変し、20日に息を引き取った。中村さんが再入院前のライブで披露した人生最後の歌は「喝采」だったという。

 本紙で2016年に連載「スポイト人生」を執筆したほか、何度もインタビューに快く応じてくれた中村さんは、大物作曲家でありながら、子や孫のような世代の記者にも分け隔てなく優しく接する〝きさくなオッサン〟だった。

 酒が大好きで、高アルコール度数の泡盛なども絶対に割らない主義。陽気に飲んで、スナックなどでは、たびたび美声を披露していた。

 入院中もジョークが大好きな中村さんらしさが全開だった。「アイスキャンディーが好きで、病床でもコンビニで売っているミルクバーをよく食べていた。『赤ちゃんはお乳しか飲まんやろ。これで栄養取れる』と笑っていました」(中村さんを知る関係者)

 あの名曲も中村さんらしい〝ユーモア〟から誕生した。桜田淳子の「わたしの青い鳥」(73年)だ。本紙連載で明かしたところによると当初、作詞家の阿久悠さんが書いた詞は「ようこそここへ ランラランラン」だったという。しかし中村さんは「青い鳥は『ランラランラン』なんて鳴かないやろ」と独断で「クッククック」に変更。阿久さんも認めてくれたことで、そのまま世に出て大ヒットとなった。

「大阪を歌謡曲の聖地にする」と提唱し、精力的に活動していた中村さんだが、若い世代の歌手のことも認めていた。

 本紙インタビューで「米津(玄師)とかあいみょんとかが出てきて『ほれ見てみ、出てくるやないか。この子ら、全然媚びてないやないか』ってうれしさがあった。若い世代の音楽を聴く耳が変わってきているのは間違いない。僕たちの時代よりもマニアックに好きな音楽を探していて、音楽を聴く耳を持っている。大人たちの方がかなり遅れていると思うよ」と心からうれしそうな笑みを浮かべていた。

 中村さんの思いは残された多くの楽曲とともに生き続けていく――。