「歌謡曲界の巨人」筒美京平さん 〝歌姫〟松田聖子、中森明菜に楽曲提供がなかったワケ

2020年10月13日 05時15分

デビュー当時の松田聖子(左)と中森明菜

「また逢う日まで」「木綿のハンカチーフ」など、世代を超えて親しまれる名曲の数々を生み、昭和の歌謡曲黄金期を支えた作曲家・筒美京平(本名・渡辺栄吉=わたなべえいきち)さんが7日午後3時ごろ、誤嚥性肺炎のため東京都内の自宅で死去したことが12日、分かった。80歳だった。1980年代アイドルへの楽曲提供が有名な筒美さんは、多くのヒット曲を連発したが、聖子と明菜の2大アイドルは、なぜか〝筒美ソング〟を歌っていない。そのワケは――。


 筒美さんの葬儀は、故人の遺志により近親者のみで執り行われた。「お別れの会」などはコロナの影響もあり、開催の予定はないという。

 筒美さんの活躍を語るうえで欠かせないのが、80年代アイドルへの楽曲提供。有名どころはみな、筒美ソングを歌った。筒美作品のシングル売り上げトップ20には、近藤真彦の曲が7曲も。C―C―Bの「Romanticが止まらない」(85年)、また90年代に手掛けたKinKi Kidsの「やめないで、PURE」(99年)もトップ20入りしている。

「83年春、デビュー2年目の早見優に『夏色のナンシー』、小泉今日子に『まっ赤な女の子』を提供して、ブレークさせたのも筒美さんだった」とは、アイドル評論家。

 ただ意外にも、80年代アイドルのツートップ、松田聖子と中森明菜への楽曲提供は1曲もない。

 聖子を発掘し育てた名プロデューサー・若松宗雄氏によると、デビュー曲「裸足の季節」や続く「青い珊瑚礁」を収録したファーストアルバム制作の際、筒美さんにもオファーしたという。ところが当時、筒美さんはあまりにも売れっ子すぎて「順番待ちが多くてかなわず…」。そんな秘話を若松氏は今夏、ファッション誌「GINZA」のインタビューで明かしている。

 一方の明菜はデビュー曲の「スローモーション」の作詞・作曲は、当時新進気鋭の来生えつこ・たかお姉弟が担当した。

 ある音楽評論家は「当時の明菜はいわゆるメジャーな作曲家ではなく、若くて新鋭の作家陣をあえて起用していたので、筒美さんの曲は歌っていない。一度、筒美さんが手掛けたシングルを歌う、聖子・明菜を聴いてみたかった」。

 晩年の2015年には野口五郎に「再会タイムマシン」という楽曲を提供したこともあったが、「ここ数年は体調が思わしくなく、自宅療養を続けていると聞いていた。周囲も先生の体調は心配していた」(芸能プロ関係者)。

 筒美さんは、もともとは作曲家ではなく、大学卒業後はレコード会社の洋楽担当ディレクターだった。音楽関係者は「当時から才能が際立っていたそうで、作詞家の橋本淳さんなどに勧められて、作曲家の道に進んだと聞いています。小さいころからピアノをやっていて、腕前も抜群だった」と言う。

 筒美さんの作曲家としてのスタイルを一言で表すと〝努力の人〟。

「時代に合った音楽マーケットを分析して、作品を作り上げていくという感じ。もともと洋楽のディレクターをやっていたこともあって、洋楽には詳しかったし、造詣も深かった。最先端の音楽をとことん突き詰めて、曲を作る感じだったそうです」(同関係者)

 その後、大ヒットを連発しても表舞台には出るような人ではなかった。

 レコード会社関係者は「とにかく表には出たがらない人。特集番組を作りたいとテレビ局の人が何度掛け合っても、なかなか『うん』とは言わなかった。自分は裏方、と徹底していた」。そのためテレビ出演は数えるほどだったという。

 雑誌や新聞のインタビューもめったに受けなかった。同関係者は「たまにインタビューを受けても、写真は昔の写真を使い回す、なんてこともあった」という。