最多金メダルにも一役買った――。「KENZO(ケンゾー)」ブランドで世界のファッション界を先導した服飾デザイナーの高田賢三さんが4日、新型コロナウイルス感染のため、パリ郊外の病院で死去した。81歳だった。9月半ばに感染が判明、入院治療を受け、関係者は回復を祈っていたが、かなわなかった。数々の仕事の中には、日本選手団が歴代最多タイの金メダル16個を獲得した、2004年アテネ五輪の公式服装のデザインもあった。

 関係者によると、高田さんは9月初旬に南フランスへのバカンスからパリに戻った後の同10日ごろ、体調不良を訴えて入院。翌日にPCR検査でコロナ感染が判明した。関係者に電話で「体調が良くなってきた」と話すなどしていたが、容体は一進一退を繰り返し、日本時間の10月4日夜に亡くなった。

 高田さんは3月、インテリア商品を中心とする新ブランド「K三(ケースリー)」を立ち上げ、例年4月にイタリア・ミラノで開催される世界最大級の家具見本市「ミラノサローネ」でお披露目する予定だった。が、同見本市も新型コロナの影響で開催されなかった。

 まさに日本人デザイナーのパイオニアだった高田さん。文化服装学院在学中に「装苑賞」受賞。1965年渡仏し、70年にパリにブティック「ジャングル・ジャップ」を開いて最初のコレクションを発表する。その中の1着が雑誌「ELLE」の表紙を飾り、日本の生地を使った服などで「ケンゾー」の名前は知れ渡った。

 それからはとんとん拍子。高田さんの服は、当時主流となりつつあった量産の「プレタポルテ(既製服)」に合い、爆発的に流行。パリのファッション界で「50年代はクリスチャン・ディオール、60年代はイブ・サンローラン、70年代はケンゾー」と呼ばれるほどに。

 81年の日仏合作映画「夢・夢のあと」で映画監督に挑戦。83年から紳士服も手掛けた。世界中で親しまれたが、会社をモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン(LVMH)に売却。99年秋開催のパリ・コレクションを最後に「ケンゾー」ブランドからも離れた。

 華やかな色彩、大胆な柄の組み合わせ、民族衣装からの着想、重ね着などを想像力豊かに展開。そのデザインはオリンピックでも生かされた。

 日本が64年東京大会と並ぶ史上最多の金メダル16個を獲得したアテネ五輪。ユニクロが日本選手団に提供した開会式用などの公式服装を、高田さんがデザインした。
「SHOW YOUR COLORS~あなたらしさを、思う存分発揮してください」をテーマにデザインされた服装は、高田さんが持つ日本のイメージカラーの白、朱、黒の3色が基調。とりわけ、開会式で着用された男性の上下白スーツや女性の水玉模様風デザインは話題を呼んだ。

 日本オリンピック委員会(JOC)ホームページによると当時、高田さんは「この服を選手が着ることがパワーになってくれることを期待しています」と話したが、それに応える結果を選手が示した。

 紫綬褒章、フランス政府の芸術文化勲章などを受章。「60年来のたった一人の親友だった」と話すファッションデザイナーのコシノジュンコさん(81)は「亡くなるなんてあり得ない。しかもコロナなんて」と喪失感をあらわにした。