織田哲郎 俺をデビューに導いたのはJ・ペイジよりギターがうまい同級生

2020年10月04日 10時00分

織田哲郎㊧とユカイ

【ダイアモンド☆ユカイの昭和ロックを語る時が来た!】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(58)が、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。ゲストはシンガー・ソングライター、作曲家、プロデューサーとして多数のヒット曲を世に送り出した織田哲郎(62)。高校時代、転校して出会いプロデビューへと導いたギタリストとは? また後に氷室京介も参加した謎だらけのグループ「スピニッヂ・パワー」の結成秘話を語る。 (隔週連載)

ユカイ 高校に入って初めてバンドを組んだ時はまだ高知?

 織田 高校1年生の時で、その時は高知。親はまだイギリスだったから、両親の出身地で親戚が多い高知の学校に入ったわけ。2年の時に両親が帰国して、東京の高校に転校した。

 ユカイ その東京の高校で“運命の出会い”があったんですよね。

 織田 実は高知時代は自分のエレキギターを持ってなくて、バンドメンバーのいとこに借りてたんだよ。転校してエレキを買いたかったから、クラスのやつに「フライングVが欲しい。誰か売ってくれないかな」って話したら、「ちょうど売りたいやつがいる」って。それが北島健二。

 ――あの1970年代末から活躍するスーパーギタリストの!?

 ユカイ 同級生だったんですよね。当時からうまかったんですか?

 織田 そう。とんでもなくうまくて、俺なんてお話にならないレベル。レッド・ツェッペリンのコピーバンドをやってたんだけど、本家のジミー・ペイジよりうまいんだよ。例えば「Whole Lotta Love」(69年、邦題=胸いっぱいの愛を)でジミー・ペイジがライブでは省略する部分も、北島はきっちり弾いていた。

 ――3大ギタリストのひとり、ジミー・ペイジよりうまい高校生って…

 織田 あまりのうまさに、こっちはその日から人前でギターを弾く気をなくしたわけよ(笑い)。俺はギタリストを目指していたけど、北島との出会いを機に「歌おう」となった。

 ユカイ 出会うきっかけになったフライングVはどうしました?

 織田 買って、家で地味に弾いてました(笑い)。それはグレコ製だったんだけど、北島はその時、すでにギブソンのSGを持っててさ。高知から来た人間としては、本物のギブソンを持ってるってだけでビビるよ。神棚に飾るような物だと思ってたから。

 ユカイ 高校生がよくギブソンを持ってましたね。ところでなぜフライングVだったんですか?

 織田 マーク・ボラン(T―REX)の影響だね。

 ユカイ その後、北島さんとは。

 織田 それから一緒にバンドをやるようになった。北島も俺も完全にプロ志向でね。俺は親から「大学だけは行ってくれ」と言われたので籍だけ置いてた。北島は高校を卒業していろいろやって、舘ひろしさんのバンドに入った時に長戸大幸さんと知り合うんだね。長戸さんが舘さんの曲を作ってたから。

 ユカイ クールスを辞めた後の「舘ひろし&セクシーダイナマイツ」の時ですね。

 織田 その時期だね。で、北島から「長戸さんが歌えるやつを探してる」と聞いて会いに行ったんだよ。19歳の時。長戸さんから「レコーディングしてるから遊びにおいで」って言われて、初めてレコーディングスタジオというものに入ってね。当時はスタジオに行けるってだけですごいことでさ。

 ユカイ 後のデビューにつながる大きな転機じゃないですか。

 織田 行ったら西濱哲男さんと村田有美という子がいた。有美ちゃんはやたら歌がうまくてさ。歌を聴いた長戸さんが急きょコーラスのラインを作って、西濱さんと俺と有美ちゃんの3声でレコーディングしたんだよ。こんな適当に決めるの!?ってびっくりした。この時録音したのがスピニッヂ・パワーの「ポパイ・ザ・セーラーマン」。

 ユカイ 伝説の!

 織田 ある意味、伝説だね。こんなの売れるわけがないと思ってたら、数か月後、ディスコで大ヒットしてたんだ。

 ☆…おだ・てつろう 東京都出身。シンガー・ソングライター、作曲家、プロデューサー。1979年デビュー。80年代半ば以降、作曲家として「シーズン・イン・ザ・サン」「負けないで」「おどるポンポコリン」などのヒット曲を手掛け、自身のシングル「いつまでも変わらぬ愛を」もミリオンセラーに。累計シングル販売数4000万枚以上。ダイアモンド☆ユカイらとのバンド「ROLL―B DINOSAUR」で2枚のアルバムをリリース。「織田哲郎 LIVE TOUR 2020 一寸先はYummy!」が10月24日に名古屋、25日に大阪、11月6日に東京で開催。詳細は公式サイト(t―oda.jp)へ。