渡哲也さん 夜の銀座でみせた超一流の作法 後輩より先に席を立ち…

2020年08月15日 05時15分

サングラス姿はトレードマークだった(1975年2月撮影)

 日活アクション映画や刑事ドラマ「西部警察」で知られる俳優の渡哲也(本名・渡瀬道彦)さんが10日午後6時30分、肺炎のため死去した。78歳だった。14日に家族葬を行った。故人の遺志により、お別れの会などは開かない。石原裕次郎さん亡き後、石原軍団を引っ張った渡さんは、男気あふれ、心遣いができる優しい人だった。芸能界でも多くの人に慕われていた。本紙だけが知る〝秘話〟を公開――。

 渡さんといえば、1987年に亡くなった昭和の大スター・石原裕次郎さん(享年52)との固い男の絆で知られた。

 1964年に日活に入社したが、裕次郎さんにほれ込んで、71年に石原プロモーションに移籍。その直前、石原プロが映画で多額の借金を背負い苦境に立たされているのを見た渡さんが「これ使ってください」と全財産の180万円を裕次郎さんに差し出したのは有名な話。裕次郎さんはこれを固辞したものの、渡さんは「じゃあ、給料はいらないので石原プロに入れてください」と、倒産寸前の石原プロを支えるために移籍したわけだ。

 裕次郎さん亡き後、87年に石原プロ社長を引き継ぎ、2011年に退任。その後も裕次郎さんの妻・石原まき子会長を支え、〝鉄の結束〟を誇った石原軍団のトップとして引っ張った。

 先月、石原プロは、来年1月16日にマネジメント業務を取り止め、著作権管理などに専念すると発表。実質的な解散が決まった。

「渡さんは裕次郎さんに会社の商号をこれで本当に返せるとホッとしていたそうです。まき子さんも文書で明かしましたが、そもそも裕次郎さんの遺言は『俺が死んだら即会社をたたみなさい』というものだった。責任感が強かった渡さんはそれを見届けて、やっと肩の荷が下りたのでしょう」(石原プロ関係者)

 裕次郎さんの遺言を守るかたわら、自分を差し置いてまき子夫人や石原軍団の若手のことを真っ先に考えていた。

「自分のことはすべて後回し。まき子さんや若手のことを一番に考える人だった。今回の解散に際しても所属俳優の身の振り方を心配して『自分のことは一番最後でいい』と話していた。趣味は自宅でやる焚き火くらいだったのでは」(前同)

 渡さんは〝気遣いの人〟として知られており、それは大御所になっても変わらなかった。石原プロ所属の俳優が出演する映画やドラマの撮影現場には必ず「大量のおはぎ」の差し入れがあったことは、芸能界では知らぬ者がいない話だ。

 また本紙は過去、夜の銀座で渡さんが見せた一流の振る舞いをキャッチした。銀座8丁目のクラブで渡さんが飲んでいたところ、とある後輩俳優が誕生日の友人とともに訪れたのだ。

 芸能界は礼儀を重んじる「縦社会」。あいさつを先にするのは当然、後輩俳優の方だが「渡さんは2人に気付くなり、すっと席を立って、2人に頭を下げたんです」(芸能関係者)。渡さんの振る舞いに、後輩俳優と友人は恐縮しきりだったことは言うまでもないだろう。

 渡さんは先に退店したのだが、その後も渡流の気遣いは続いた。まずは後輩俳優の友人の誕生日を祝う花がクラブに届けられた。さらに「後輩俳優が支払いをしようとすると、店のスタッフから『渡さんがお支払いになられました』と。そこまで徹底できる人は渡さん以外にはいませんよ」(前同)。

 渡さんの優しさについては、かつてカルーセル麻紀も本紙に明かしている。裕次郎さんにかわいがられたカルーセルだが、そのころ渡さんはまったく口をきいてくれなかった。

 裕次郎さんが亡くなった後、カルーセルが「私のこと嫌いだったの?」と聞くと、渡さんは「いや、違うよ。麻紀さんは社長の大切な友達で一番かわいがってたから、自分は口を出す立場になかっただけ。でも社長が亡くなった後は、自分が面倒見なきゃいけない」と言ってくれたという。

 その言葉通り、裕次郎さんの三回忌などには必ずカルーセルを呼び、裕次郎さんに代わってかわいがったというのだ。

 男気、気遣い、優しさで構成されていたと言っても過言ではない渡さん。その死を本当に多くの人が悲しんでいる。