【新宿ゴールデン街交友録 裏50年史】機動隊から逃げ込む先が70年代には「癒やしの場所」に

2021年04月25日 10時00分

ベトナム戦争中に、新宿駅西口広場で反戦ソングを歌った集会はフォークゲリラと呼ばれた

 1968(昭和43)年~70(昭和45)年は政治の季節だった。68年の新宿騒乱、69年の安田講堂事件、日大闘争、新宿西口に響き渡った「反戦ソング」のフォークゲリラ事件、70年の安保闘争…。

 当然、私も闘争の仲間に加わり石投げる日々も。その頃は新宿成子坂の4畳半のアパート暮らし。風呂無しボットン便所の典型的な貧困生活。デモ参加の日は荷物無し、ポケットには10円玉数個と弁護士の電話番号メモのみ。機動隊に追われ逃げ込む先がゴールデン街だった。

 この街は右翼から左翼、分け隔たり無く受け入れる大きな度量があった。それは戦後闇市からしたたかに生き抜いて来た住人達の反骨精神が連綿と受け継がれていたからだろう。その想いは今にも連なる。そんな反骨、反権力精神がオーナー達にも、お客にも染み込んでいる。そこに酒だ。この街は常に何処かで「喧嘩」騒動が繰り返されていた。客同士が喧嘩になる。お巡りさんが来ると肩叩き友達を決め込み、帰ると又、おっぱじめる。

 オーナー達も慣れたもの「花園神社で殴り合ってきな!」でかかわり合いにはならない。喧嘩本人同志が外に出かけ何分か後に戻った時には、仲良く連れ立って戻り又、飲み出すなんて事は日常茶飯時だった。

 佐藤重臣が出版していた「映画評論」の吹き出しページには「何日にゴールデン街の何処そこで誰と誰が喧嘩していた」と書かれていて名物コーナーとなっていた。

 70年代に入り、新宿ゴールデン街はそうした闘争に疲れた人々の「癒やしの場所」として注目されだしていた。私も食えないながらも役者生活を送る中、先輩の後ろにくっつきゴールデン街を徘徊していた。前回で書いた文壇バー「まえだ」の他、「さつき」「もんきゅう」「ムーミン」「どじ」。フラメンコ酒場「ナナ」。漫画家、落語家さんの溜まり場「プーサン」、名物ママで気っ風のいい「キヨ」こと太田喜代子の「唯尼庵」、美人2人で切り盛りしていてファンも多かった「比丘尼」、腹が減るとラーメン食べに入った「長崎屋」「たる扇」…あげ出すときりがない。でも楽しかったな青春の日々!

 ◆外波山文明(とばやま・ぶんめい)1947年1月11日生まれ。役者として演劇、テレビ、映画、CMなどで活躍。劇団椿組主宰。新宿ゴールデン街商店街振興組合組合長。バー「クラクラ」オーナー。

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