70歳にして米デビューの作曲家・芹澤氏「死ぬまでこの挑戦は続けます」

2020年10月04日 10時00分

夢をかなえた芹澤氏は年齢を感じさせない若々しさ

【この人の哲学:芹澤廣明(作曲家)】中森明菜、チェッカーズ、さらには「タッチ」や「キン肉マン」「機動戦士ガンダムΖΖ」の主題歌など数多くのヒット曲を生み出した作曲家、芹澤廣明氏(72)。最終回は70歳にして実現した米国デビュー、そしてこれからを語る。

 ――米国デビューの夢をかなえるために50歳から英語の勉強を開始。50歳から新しいことを始めるのは大変では

 芹澤氏 例えば会社で課長から部長に出世したいなら、そのためにやらなきゃいけないことがあるでしょ。同じことです。米国でデビューしたいなら、英語をしゃべれなきゃダメ。言葉ができないと交渉もできないんだから。勉強しようと思ったのは当然のことです。

 ――いつからの夢ですか

 芹澤氏 10代のころ、FENでデル・シャノンの「ランナウエイ」(1961年)を聴いた時に、「おれもアメリカで歌を出したい」とおぼろげに思っていた気がするね。NHKの「ステージ101」に出演していた22歳か23歳の時には、見学に来ていた英国のテレビ局のプロデューサーが「君はイギリスで通用するから、ぜひいらっしゃい」と声をかけてくれたんですよ。そういうことがあって、30歳ぐらいの時には、いつかアメリカで曲を出そうと決定的に思ってました。

 ――日本人が米国でデビューするのはかなり難しいです

 芹澤氏 そもそも何をやったらデビューにつながるのか、最初はわからなかったんです。一時はロンドンに住んで、英語の勉強をしながらコネクションを探したりいろいろやったけど、全然ダメでした。

 ――それでもモチベーションを維持できたのは

 芹澤氏 ポップスが好きでずっと音楽をやってきて、最終的な到達点として、自分の作る音楽がアメリカ人に通用するか、確かめたかったんです。

 ――結果として70歳で米国デビュー。実現できた要因は

 芹澤氏 13、14年前に日本フォノグラム元社長のアレクサンダー・アブラモフさんに出会え、彼に交渉事をやってもらうようになったからですね。日常会話ぐらいの英語はしゃべれたけど、交渉するとなると著作権も知ってなきゃいけないでしょう。彼は著作権にも精通しているし、これ以上ない人。出会えたことで「やれるかもしれない」と思えたし、実際にリリースできました。

 ――10代からの夢をかなえるために、50歳から動きだし、70歳で実現させたんですね

 芹澤氏 10代の時は70歳になってアメリカで歌を出すなんて思わなかった(笑い)。2018年にデビュー曲の「Light It Up!」、19年に「Energy of Love」、そして今年5月に「Julia」を出しました。こうなると出すのが当たり前になって、今度は売れたい、売れるかもしれないと思うんです。これが重要でね。売れたらもっと面白いことが待っているんじゃないか、人生のスタンスが変わることがあるかもしれないと、大きな楽しみができました。

 ――米国市場を意識して作曲するのですか

 芹澤氏 最初はそう思ってたけど、最近は自分が思ったことをやればいいと変わってきました。

 ――最新作「Julia」は「少女A」(82年)以降、コンビで数々のヒット曲を送
り出した売野雅勇さんが英語詞を書いています

 芹澤氏 これは運命だね。

 ――売野さんはどんな方ですか
 芹澤氏 才能があり、とんがっていて、年を重ねても切っ先が鈍ってない。加えて教養がある。それにモテるよね。口がうまいんじゃない(笑い)。

 ――米国での反応は

 芹澤氏 いいですよ。でも出せてるってだけ。あるカテゴリーだけで売れた曲はありますけど、全米ではないですね。ビルボードでトップ10に入らないと、実績にはならないですから。

 ――引退は考えないのですか

 芹澤氏 考えません。死ぬまでこの挑戦は続けます。ここまで音楽家として生きてこれたから、音楽家として最後までやって、ぽっくり死にたい。ぽっくり死ぬのが一番迷惑かけないじゃない(笑い)。

 ☆せりざわ・ひろあき 1948年1月3日生まれ。神奈川県横浜市出身。歌手、ギタリスト、作曲家、音楽プロデューサー。高校在学中から米軍キャンプで演奏し、67年にGSグループ「ザ・バロン」を結成して69年にデビュー。解散後に若子内悦郎と「ワカとヒロ」を結成。その後、作曲家として中森明菜「少女A」(82年)、チェッカーズ「涙のリクエスト」(84年)、岩崎良美「タッチ」(85年)ほか多数のヒット曲を生み出した。2018年に自ら作曲した「Light It Up!」を歌い全米デビュー。今年5月には芹澤氏作曲、売野雅勇氏が英語詞を担当した全米3枚目のシングル「Julia」が発売された。