【この人の哲学:林哲司氏編(9)】最近、海外で再評価されている「シティ・ポップス」の楽曲や「悲しい色やね」などの大ヒット曲を数々世に送り出した作曲家の林哲司氏(70)。杉山清貴&オメガトライブに続いて菊池桃子にも楽曲を提供し、ヒットを連発した。当時を振り返って思うこととは?

 ――林さんは杉山清貴&オメガトライブの曲を手掛ける一方、同じ事務所からデビューしたアイドル・菊池桃子もデビュー曲以来ずっと手掛けました。両者の音楽性は全く違います。社長兼プロデューサーの藤田浩一さんが林さんに任せ続けたのはなぜでしょうか

 林氏:オメガに関しては、初期に作曲家を変えるタイミングはあったんですよ。準備したデビュー曲「海風通信」がイメージと違ったなら、僕以外の作曲家を起用しても良かった。なんで藤田さんがまた僕に依頼したのか。考えられるのは「一度書いてもらったし、断るのが悪いから」だったのか、「この人が違う答えを出してくれる」と、作曲家としての能力を信頼したのか。僕は後者だと思いたいけれど、藤田さんが亡くなった今となってはわからないです。2作目から変わってもおかしくなかったですし。

 ――「サマー・サスピション」(1983年)は26万枚の大ヒット。2枚目「ASPHALT LADY」(83年)は…

 林氏:いきなり6万枚に落ちちゃったんですよ。20万人どこに行った?と思いましたよね(笑い)。でも3枚目の「君のハートはマリンブルー」(84年1月)は藤田さんがドラマのタイアップを取って、起死回生の一曲に。同時期に菊池桃子のデビューシングルも動いてました。

 ――「青春のいじわる」(84年4月)ですね

 林氏:オメガは2枚目で売り上げが落ちたのに、3枚目も僕に託してくれ、さらに桃子まで。藤田さんの僕に対する信頼とはなんだったのか、正直、わかりません。きっとあのころ、藤田さんの望んでいた音と、僕が導き出した音が一致していたんでしょう。

 ――その後、オメガは5枚目の「ふたりの夏物語」(85年)が大ヒット。菊池桃子も「卒業」(85年)、「Say Yes!」(86年)などヒット曲が多数あります

 林氏:実は最近知ったんですが藤田さんも曲を作れる方だったんです。でもオメガの4枚目ぐらいからは細かい指示もなく、一切口を出さずに任せてくれました。詞とボーカルに関しては独自のこだわりがあって、注文が多かったようです。杉山君も桃ちゃんも何度も歌い直しさせられてうんざりしていたし、康(珍化)さんが打ち合わせで怒って出て行っちゃったこともありましたね。すぐ戻ってきましたけど。

 ――藤田さんのプロデュースはどう思いましたか

 林氏:すごい!と思う時もあれば、「え?」っていう時もありましたね。「杉山清貴&オメガトライブ」というグループ名も、コケていたら「なにこれ?」って扱いになってましたよね。

 ――藤田さんのプロデュースにより、菊池桃子は突如「ラ・ムー」になったわけですが

 林氏:あれは度肝を抜かれました(笑い)。

 ――80年代、林さんはこの2組以外にも多数の曲を提供し、多くのヒット曲を生み出しています。当時の曲を振り返って思うことはありますか

 林氏:依頼を受けた作曲は、どんなものでも真剣に向き合いました。軽そうに見える曲でも。世の中のアイドルのヒット曲の中には、そのアイドルの魅力を引き出す役割は果たしたけど、音楽性に魅力を感じられない曲もあります。その人から離れて別の人が歌っても、音楽として何かを感じさせるだけの歌曲になっているのか。そこが大きな分かれ道です。僕は「売れりゃいいからポップなものを出す」というのが嫌なんですよ。

 ――そうなんですか!

 林氏:僕のテーマは「ポップ×アート」です。大衆性と音楽性の融合が理想。やさしく聞こえるメロディーにも、音楽的な工夫がさらっと置かれている。例えばみんなが知っている童謡や懐かしい流行歌にも、よく聞き分けるとすごいコードが一瞬、入ってたりするんです。そういうスタイルをキープしたいと常々思っています。(続く)

★プロフィル=はやし・てつじ 1949年8月20日生まれ。静岡県出身。72年にチリ音楽祭で入賞。翌年シンガー・ソングライターとしてデビュー。作曲家として77年に「スカイ・ハイ」で知られる英国のバンド・ジグソーに「If I Have To Go Away」を提供。松原みきの「真夜中のドア~Stay With Me」(79年)、上田正樹の「悲しい色やね」(82年)、杏里の「悲しみがとまらない」(83年)、中森明菜の「北ウイング」(84年)、杉山清貴&オメガトライブの「ふたりの夏物語」(85年)ほか数々のヒット曲を送り出している。自ら監修した「杉山清貴&オメガトライブ 7inch Singles Box」が発売中。