【この人の哲学:林哲司氏編(2)】最近、海外で再評価されている「シティ・ポップス」の楽曲や「悲しい色やね」などの大ヒット曲を数々世に送り出した作曲家の林哲司氏(70)。林氏はどのような人生を歩んでヒットメーカーになったのか。人生を変えた言葉や出会いとは?

 ――前回は父親の説教をきっかけにブラスバンドに入り、お兄さんの勧めでクラリネットを選んだというお話でした。どんな部活動でしたか

 林氏:当時のブラバンは楽譜が充実してなくて、「海兵隊」や「君が代行進曲」といった行進曲を毎日毎日、繰り返し練習してたんですね。しかも学校の御用達みたいな部で、演奏の場はほとんど学校行事でした。

 ――となると、お堅い曲ばかりに…

 林氏:僕は好きなポピュラーミュージックや映画音楽をやりたいから、仲間を集めて適当にアレンジして演奏したり、耳で覚えた曲を一人で階段の踊り場で吹いてました。踊り場は自然にエコーがかかり吹いていて気持ちがよかった。一方でそのころ、父が経営する会社の寮にいた人のギターを借り、クリフ・リチャードを始めとする、当時の洋楽ヒット曲を覚えていったんです。これがその後の作曲のベース(基盤)になっていくんですね。

 ――中学2~3年生時の1964年にビートルズが世界的なブームになりました。影響は

 林氏:当時は依然アメリカンポップスが主流でした。そこに突然、英国から若者に熱狂的人気のグループが登場し、“ビートルズ旋風”が巻き起こっているという情報が飛び込んでくるんです。彼らの音楽を聴いたのはその少し後。最初に聴いたのは「プリーズ・プリーズ・ミー」(日本発売64年3月)でした。

 ――日本での2枚目のシングルですね

 林氏:日本での1枚目は「抱きしめたい」(64年2月)ですが、僕たち地方の音楽ファンに届いた最初のビートルズは「プリーズ・プリーズ・ミー」。かなり後までこれがデビュー曲だと思ってました。僕は“旋風”の勢いでレコードを買ったものの、最初はえたいの知れないフィーリングに“違和感”を感じ、なじめなかったんです。典型的なアメリカンポップスに慣れていたせいでしょう。甘く優しく循環する心地良いコード進行とは違うし、ギターの音色も違う。ビートルズのサウンドはエッジがきいていたんです。

 ――後追い世代が味わえない、当時のリアルな感想です

 林氏:実際、ビートルズが来日(66年)するあたりまでは、日本ではベンチャーズの方がはるかに人気があったんですよ。全国で「エレキコンテスト」が行われて、みんなベンチャーズの曲を弾いてました。

 ――ビートルズにハマらなかったんですか

 林氏:それが、3枚目のシングル「シー・ラブズ・ユー」(64年4月)あたりから「なんだこれは! 一筋縄ではいかない」と完全にハマりました。“違和感”が“心地良さ”に変わったんです。立て続けにリリースされるシングルに小遣いが追いつかず、日本版ファーストアルバム「ビートルズ!」(64年4月)は、買った女子から借りて長く返さなかった記憶があります。

 ――ブラバンの音楽とは全く違います

 林氏:放課後にほうきをギターみたいに抱えて、クラスメートと「抱きしめたい」をハモって思ったんです。ブラバンじゃない! クラリネットじゃ歌えない!と。口がふさがれますからね。僕がやりたいのは歌だ! ギターをかきならして歌うことだ!と気づいたんです。

 ――ギター、そしてビートルズとの出会いが今につながる道に導くんですね。クラリネットは

 林氏:実は芸大や音大で本格的にクラリネットや音楽を学ぶよう勧めてくれた先生もいたんですが、当時の芸大ではポピュラー音楽は学べないし、もうクラシックは頭になかったんです。今じゃ笑われちゃうけど、あのころ、地方では男がピアノをやってると仲間外れにされました。

 ――ピアノは女性が弾くもの。男は弾くな、という時代がありました

 林氏:僕の心の中で、ビートルズはベートーベンより上になってました。彼らの歌のように。クラリネットの道はそこで閉じたんです。

★プロフィル=はやし・てつじ 1949年8月20日生まれ。静岡県出身。72年にチリ音楽祭で入賞。翌年シンガー・ソングライターとしてデビュー。作曲家として77年に「スカイ・ハイ」で知られる英国のバンド・ジグソーに「If I Have To Go Away」を提供。松原みきの「真夜中のドア~Stay With Me」(79年)、上田正樹の「悲しい色やね」(82年)、杏里の「悲しみがとまらない」(83年)、中森明菜の「北ウイング」(84年)、杉山清貴&オメガトライブの「ふたりの夏物語」(85年)ほか数々のヒット曲を送り出している。自ら監修した「杉山清貴&オメガトライブ 7inch Singles Box」が4月15日に発売された。