【昭和ロックを語る時が来た】横浜がロックの“拠点”になった理由

2020年04月11日 10時00分

盛り上がったユカイ(左)とキャシー

【ダイアモンド☆ユカイ 昭和ロックを語る時が来た:キャシー中島編(4)】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(58)が、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。キャシー中島(68)が語る、戦後、日本にロックが入る上で、「横浜」が重要な拠点になった理由とは?(隔週連載)

 ユカイ:前回のお話の中で出た、横浜にいち早くアメリカのヒット曲が入った事情をもう少し詳しく教えてください。これ、けっこう見過ごされている気がするんですが、戦後の日本にロックやポップミュージックがどう入ってきたか、すなわち日本の音楽が洋楽テイストを取り入れ、劇的に変わっていく経緯を知る上で重要なポイントだと思うんです。

 キャシー:本牧に大きな米軍基地と住宅があったでしょ。当時はベトナム戦争(米国は1961年から派兵、73年撤退)で米兵の行き来が多くて、アメリカに帰国した兵士が最新のレコードを買ってきて、ゴールデンカップ(本牧の伝説的なライブハウス)のような店に持ち込んでたのよ。アメリカで発売しました、ハイ、持ってきましたというスピード感。FENでかかる前に届いて聴いてました。

 ――FENより早かったんですか!

 ユカイ:基地の外の店にも、どんどん新しい音楽が入ったんですね。

 キャシー:アメリカの最新ヒットチャートに入っている曲が店でかかるし、買ってきたレコードを売る米兵もいたから、それを目当てに敏感な日本人が通ってたわ。デイブ平尾もそれを聴くためにゴールデンカップに通っていた一人よ。それにFENとは別に、本牧の基地エリアだけでやっていた米軍のラジオもあって、近いから電波が拾えるじゃない。そういうの聴いたり。「いいね~」って話してた曲が1年後に東京ではやるとか、それぐらい横浜が早かったの。だから東京からわざわざ本牧に音楽を聴きに来る人がいたわけ。

 ユカイ:東京にそんなに差をつけてたんですか。

 キャシー:音楽だけでなく、ダンスもファッションもね。横浜は山下公園の近くに「ゼブラクラブ」っていう将校クラブがあって、ここはジャズね。いろんなジャズプレーヤーや、GSのブルー・コメッツやジャガーズが来てました。ロックの演奏を聴けて踊れたのは本牧のゴールデンカップと、近くにあった「イタリアン・ガーデン」。やっぱりジュークボックスより、生演奏の方がいいのよ。

 ――戦後、横浜はかなりの部分を接収され、朝鮮戦争(50~53年)の時も本牧など基地の周りは連合国の兵士のおかげで潤ったそうです

 ユカイ:横浜には早くから米兵の息抜きの場としてのダンスホール、ジャズクラブが複数でき、生演奏のニーズがあったことから、周辺の日本人プレーヤーが積極的に洋楽に接していくようになったんですね。一方で米兵が最新ヒットを持ち込み、それを日本人が聴ける環境が横浜にはあった。テレビもラジオも新聞もお堅い話ばかりで、そんな情報を載せたりしないし、「ネットで検索」なんて当然ない時代、基地との距離=最新音楽情報との距離だったんでしょうね。最新のロックに触れられる場所が、基地がある横浜であり、本牧だった。

 ――大滝詠一さんは横田基地がある福生(正確には瑞穂町)を、細野晴臣さんは一時、入間基地がある狭山を拠点にし、鮎川誠さんなど多数のミュージシャンが板付基地近くの博多から世に出ました。米軍基地と日本のロックの相関性は明らかですね

 ユカイ:51年のデータを見ると、全国の米軍接収地の6割が横浜にあった(返還前の沖縄は除く)そうだから、米軍基地の規模が大きかった分、周囲にもたらされる影響も大きかったんだろうね。横浜がロックの“拠点”になった理由が見えてくるね。

☆ダイアモンド・ユカイ=1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。最新ソロアルバム「The Best Respect Respect In Peace…」が発売中。

☆きゃしー・なかじま=1952年2月6日生まれ。米・ハワイ出身。3歳のころから日本に拠点を移し、69年にCMモデルとしてデビュー。歌手、テレビタレントとして活躍する。72年からパッチワークを始める。79年に俳優の勝野洋と結婚。静岡県御殿場市に移住し、87年に同市にパッチワークの教室をオープン。現在はタレントとして活動する一方、全国に6店舗のキルトスタジオを開き、後進の指導に励んでいる。