【昭和ロックを語る時が来た】音楽もダンスも横浜から広まった ゴールデン・カップスの秘密

2020年02月21日 10時00分

横浜育ちのキャシー中島をゲストに迎えたユカイ

【ダイアモンド☆ユカイ 昭和ロックを語る時が来た:キャシー中島編(1)】日本にロックが入り定着する過程で横浜が果たした役割とは?「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(57)が、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく名物企画。今回からは、タレントでキルト作家のキャシー中島(68)が登場です。横浜育ちのキャシーが、本牧の米軍接収地を中心とした当時の文化事情を語ります。

 ユカイ:この連載では、アメリカで生まれたロックがどうやって日本に根付いたかを、当事者に聞いて記録しています。キャシーさんにお聞きしたいのは、昭和半ばの人の移動も情報も少ない時代に、ロックはどのように日本に入って、浸透していったのか。なぜならキャシーさんは、ロック拡散の重要拠点だった、あのころの「横浜」を生で見ていたからです。

 キャシー:私はミュージシャンじゃないけど、ユカイさんが知りたいことをいろいろと知っていると思う。

 ユカイ:こないだ話した時に、キャシーさんに聞いたら面白いんじゃないかと思ったんですよ。

 ――この連載はこれまで鮎川誠さん、ミッキー・カーチスさん、バービーボーイズ・杏子さん、ZIGGY・森重樹一さん、BOOWY・高橋まことさんとプレーヤー側のお話を聞いてきました。今回は客観的な視点のお話をお聞きできれば

 キャシー:あ、ミッキーさんも出たのね。ミッキーと言うからミッキー吉野かと思った(笑い)。横浜で一緒に遊んでた仲間だからね。

 ――ゴダイゴのミッキーさんと!?

 キャシー:10代のころから知ってますよ。ゴダイゴの前はザ・ゴールデン・カップスにいたのよ。横浜ってちょっと変わったところなの。昔は外国の物がまず横浜港に来て、そこから各地に運ばれたでしょ。文化もそうで、踊りも音楽もファッションも横浜から広まった時代があったの。60~80年代は割とそうかな。

 ユカイ:音楽や踊りは米軍があったからというのもありますよね。

 キャシー:1982年まで本牧が米軍に接収されて、将校タウンになってたからね。89年に「マイカル本牧」ができた場所です。フェンスの向こうはアメリカだったの。山側のファイアステーションの方にも米軍住宅があって、そこの大きなもみの木が、クリスマスになると電飾をまとってきれいでね。

 ユカイ:横浜出身の柳ジョージさんに「FENCEの向こうのアメリカ」って曲がありますね。

 キャシー:彼もゴールデン・カップスにいたね。

 ――ゴールデン・カップス…。そうそうたるミュージシャンを輩出しているんですね

 ユカイ:本牧に「ゴールデン・カップ」という店があって、そこに出演していた人たちのバンドですね。

 キャシー:お店は今も続いてます。当時は若い米兵でにぎわって、ちょうどベトナム戦争のころだったから、戦地に行く気が立った米兵が店でしょっちゅうケンカしてた。ザ・スパイダースのメンバーも評判を聞いて店に来たんだって。でも車から降りようとしたら、入り口にやばそうな米兵がたむろしているのが見えて、怖くて入らず帰ったって(笑い)。堺正章さんから聞きました。

 ユカイ:キャシーさんはその店の常連だったんですよね。

 キャシー:私、15歳で不良になったからね(笑い)。といっても、当時の不良は悪いことしてないの。ミニスカートや白いブーツを履いてたら「不良!」。男の人は髪が長いだけで「不良!」。

 ユカイ:ギターを持ってるだけで不良でした。

 キャシー:あのころはちょうど反抗期でね。父親が違う弟ができたのもあって母親に反抗して、何をしたらいいかわからなくて。当時、野毛に住んでいて、大岡川の横に公民館があってね。パッと見たらバンドが練習してたの。ボーカルの声がすごくすてきで、ずっと見てたら「こっちにおいでよ」って。私、かわいかったから(笑い)。そのバンドがスフィンクス。ゴールデン・カップスの母体です。

☆ダイアモンド・ユカイ=1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。最新ソロアルバム「The Best Respect~Respect In Peace…」が発売中。

☆きゃしー・なかじま=1952年2月6日生まれ。米国・ハワイ出身。3歳のころから日本に拠点を移し、69年にCMモデルとしてデビュー。歌手、テレビタレントとして活躍する。72年からパッチワークを始める。79年に俳優の勝野洋と結婚。静岡県御殿場市に移住し、87年に同市にパッチワークの教室をオープン。現在はタレントとして活動する一方、全国に6店舗のキルトスタジオを開き、後進の指導に励んでいる。