【昭和ロックを語る時が来た】鮎川誠 勝負は東京で…けどシーナとやろうなんて思いもせんやった

2019年11月02日 10時00分

語り合う鮎川とユカイ

【ダイアモンド☆ユカイ 昭和ロックを語る時が来た】「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(57)が、ゲストを招いて昭和時代に巻き起こった日本のロックムーブメントをひもとく。「シーナ&ロケッツ」のギタリスト、鮎川誠(71)が語るデビューまでのストーリー。実はシーナと組む気はなかった!? (隔週連載)

 ユカイ:1973年、博多に現れた内田裕也さんの前で演奏して、その後、どうなったんですか?

 鮎川:しばらく音沙汰なかったけど、翌年やね。74年に裕也さんがプロデュースした「ワンステップフェスティバル」(福島・郡山)の出演者に俺たちのことを入れてくれた。

 ユカイ:裕也さん、博多まで発掘に行ったってことですね。すごい行動力だ!

 鮎川:そうやね。福岡まで俺たちを見に来て、大きなフェスに出してくれた裕也さんにはいまだに感謝しとるし、思い出すとジーンときおる。裕也さんは大恩人やと思っとる。

 ユカイ:サンハウスはその年にレコード会社と契約して、翌75年にデビューアルバムを発売してます。デビューはすんなり決まったんですか?

 鮎川:いや、そのころね、いろんなバンドが地方から「行ってきま~す」っち東京に行ってたんやけど、俺はその“上京してデビュー”っち図式が大嫌いやった。俺たちは博多におるぜ!ここでやるぜ!ち思とったら、テイチクのプロデューサーが「レコードを出しませんか。博多にいたままでいいです」ち言うてくれたからうれしくなってね(笑い)。それで74年にデモテープをとりに東京に行って、ワンステップも出してもらって。レコードもけっこう売れたんやね。「ヒット賞」っち盾をもらって。

 ユカイ:そんな鮎川さんが東京に行く気になったのは?

 鮎川:サンハウスは福岡におるまま3枚目までアルバム作ったけど、メンバーが1人辞め、2人辞めして、3枚目が出たところで解散ちなった。78年やね。

 ユカイ:シーナ&ロケッツを結成したのもその年ですね。

 鮎川:僕は既にシーナと結婚しとって、76年に双子が生まれて。シーナの実家が北九州なんやけど、お義父さんが「まこちゃん、一緒に暮らさんね。赤ちゃんやら大変やろ」っち言うてくれたから居候して。サンハウスが解散した時、お義父さんが「あんた、未練があるごとあるの。なんで東京で勝負せんね。福岡で人気あったっちゃ、日本じゃ誰も知らんばい。勝負は東京でせんね」ち言うてくれてね。

 ユカイ:背中を押されたんですね。

 鮎川:「東京で一回勝負して、ダメなら音楽への未練を断ち切って家業を手伝ってくれ」っちね。

 ユカイ:素晴らしいオヤジ心! 父親になって初めてそのオヤジ心の深さがわかります。

 鮎川:それで東京に行って1週間ぐらいしたらシーナが来て。当時はパンクロックの大風が吹きよるころで、友達とストーンズの「Come On」のパンクバージョンをやりよったら、「私がコーラスやろうか」っちなって。そのころ、仕事にありつくことをものすごい真剣に考えだしてね。それまで生活のこととか、売れたいとか考えたことなかったけど、双子のためにちゃんとせなあかんち、他のシンガーに自分の曲を提供して。

 ユカイ:シーナさんではなく?

 鮎川:その時はシーナとやろうなんて思いもせんやったよ。シーナはひそかに思いよったかもしれんけど、俺は夫婦でロックはかっこ悪いと思いよった。アイク&ティナ・ターナーみたいに夫婦でやりよる人はいたけど、俺らがあの人たちみたいになれるわけがないし、世間にも受け入れられんち思っとった。

 ユカイ:70年代のロック界はそういう空気だったかもしれませんね。でも、鮎川さんの気持ちをひっくり返すほどのことがあったんですね。

☆あゆかわ・まこと=1948年5月2日生まれ。福岡県出身。九州大学在学中の70年からブルースバンド「サンハウス」で活躍。78年に妻シーナと「シーナ&ロケッツ」結成。海外デビューも果たし、国内外で37枚のアルバムを発表。2015年にシーナ死去後もバンドは継続。現在、鮎川誠の71歳を記念して、シーナ&ロケッツ“ROCK OF AGESツアー”を全国で開催中。バンド結成42周年目に突入する11月23日に下北沢ガーデンで「42回目のバースディライブ」を開催予定。

☆ダイアモンド・ユカイ=1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。最新ソロアルバム「The Best Respect Respect In Peace…」が発売中。