【この人の哲学】ジャニーズで30年以上ヒット曲を作った原動力

2020年01月01日 10時10分

【この人の哲学】ジャニーズで30年以上にわたって音楽プロデューサーとして活躍し、「夜空ノムコウ」などあまたのヒット曲を手掛けた鎌田俊哉氏。裏方に回った経緯と理由、ジャニー喜多川氏や大物ミュージシャンと接する中で得た“哲学”を語ります。今回は長く裏方を続けヒット曲を作った“原動力”を明かします。

 ――井上堯之さんの事務所からバンドデビューするも、売れなかったと

 鎌田氏:仕事がないから、いろんな人を手伝いました。井上さんは萩原健一さんや沢田研二さんと長く一緒にやっていました。お2人との仕事もありました。今思い出しても沢田さんと萩原さんのオーラはすごかった。ビリビリ来ましたよ。普通には絶対いない存在です。ダントツにかっこ良かった。

 ――大変なこともあったようですが

 鎌田氏:1970年代は反社会的勢力が関わっている興行や店が多くあったのです。ある方主催の都内のロックフェスに出たら、井上さんや大野克夫さんが「すぐ帰れ!」とヤケに急がせる。要は奥にそういう人たちがいて、巻き込まれないよう守ってくれたんです。確かにワケのわからない人がウロウロしてました。

 ――暴対法が施行されるずっと前ですね

 鎌田氏:あるお店に「ギター弾け」って呼ばれて行ったら、そういう方たちの店で、ギャラをくれない上に「お前、下手だからギター置いてけ」ってギター取られる。演奏後裏に連れて行かれて逆に「金払え」って脅されたことや、メンバーの彼女がどこかに連れて行かれたこともありました。

 ――暴力団が芸能興行に入っていた時代

 鎌田氏:前にも言いましたが「数々のあり得ない経験」です。その方々に脅され、このまま殺されるのか?という思いもしてきたから、普通の社会の人が怒っても「命取られるわけじゃない」とすぐ腹はくくれるんです。

 ――昔は音楽業界にもなかなかな人が…

 鎌田氏:井上さんは守ってくれましたが、怖い人やおかしな人は多くて、暴力を振るわれるなどひどい目に遭わされ、随分と嫌な思いをしました。僕が音楽業界に残って裏方仕事を続けてきた原動力は、そのころの経験です。「やったやつらを見返す」。実はそれだけなんです。

 ――裏方に回ったのはどういう経緯でしたか

 鎌田氏:僕のバンドのボーカルがバイト中の事故で歌えなくなり、僕らは同じ事務所で「ペガサスの朝」(80年)が大ヒットした五十嵐浩晃くんのツアーバンドを2年ぐらいやりました。「ザ・ベストテン」に毎週出ていたからどこも満員。全国に出かけ、月に28本コンサートやって、3か月で車が買えるぐらいのお金が入ったけど、「このままでいいのか」と考え辞めました。それでCM曲でギター弾いたり、本田恭章くんのツアーをやってた時に、再び鈴木正雄社長に呼ばれたんです。

 ――角海老宝石の。なお、本田恭章は日本のビジュアル系の元祖のようなソロ歌手です

 鎌田氏:鈴木社長はホテルニューオータニのスポーツクラブの会員で、そこで出会ったのがメリー(喜多川)さんの旦那さんでした。鈴木さんがクラブで「よく見るけど」と話しかけ、「家内が音楽事務所をやってます」「うちにバンド屋がいます」という話から呼ばれ、小杉理宇造さんと会いました。RCAレコードから、山下達郎さんと新しいレーベルAlfaMoonを作ったころです。

 ――小杉氏は後のワーナーミュージック・ジャパン会長、ジャニーズ・エンタテイメント社長ですね

 鎌田氏:小杉さんは「お前、ギターとピアノができて、曲も詞も書け、アレンジもやるんだよな。しかも明るい。そういうなんでもやれるやつは表に出るよりスタッフになった方がいい」と説得してきたんです。それで「ジャニーズ事務所が制作部門を作るから、お前やらないか」とジャニー社長のところに連れて行かれました。僕は裏方になる気はないし、「アイドルなんて興味ない」と言ったら、ジャニー社長は…。(続く)

★プロフィル=かまだ・としや 東京都世田谷区出身。高校在学中に17歳でプロデビューし、子供ばんど、五十嵐浩晃のツアーバンドなどを経てプロデューサーに。ジャニーズのほかKiroroの「長い間」「未来へ」など数々のヒット曲をプロデュース。現在は中国にも拠点を持つ。悦音堂文化(北京)有限公司代表。カンタナ代表。