【この人の哲学(3)】リバイバルヒットしている「め組のひと」や中森明菜の「少女A」、チェッカーズ、矢沢永吉の数々のヒット曲で知られる作詞家の売野雅勇氏。作詞家の仕事を始めると、導かれるような流れができたという。

 ――前回はもともと作詞家になる気は全くなかったというお話でした。気持ちが強まったのは

 売野氏:やはり音楽が好きだから、やってみるとコピーを書くより楽しかったんですよ。作詞という作業自体に魅力があったし、ひとつ出すとみんなが褒めてくれた。「面白い」「なんでこんなの書けるの」と。それで「俺、才能あるのかな」と初めて思って、モチベーションが上がっていったわけです。

 ――最初に手掛けたのは

 売野氏:河合夕子のデビューアルバム(1981年5月発売)が最初だけど、先に世に出たのはシャネルズ(ラッツ&スター)の2ndアルバム(同年3月発売)に収録された「星くずのダンス・ホール」と「スマイル・フォー・ミー」ですね。

 ――シャネルズの作品では「麻生麗二」というペンネームでした

 売野氏:実は「星くず――」を聴いた井上大輔さんが気に入ってくれて、「麻生麗二を探してくれ! 次のソロアルバム用に何曲か作詞を頼みたい」となったそうなんですよ。本名じゃないし、まだヒット曲が出る前だから、マネジャーさんは僕を見つけるのにかなり苦労したそうです。1か月かかったって。

 ――後に「め組のひと」や映画版「機動戦士ガンダムIII」の「めぐりあい」を生み出す黄金のコンビ!

 売野氏:それで井上さんの事務所「マッドキャップ」にアルバムの打ち合わせに行ったら、制作ディレクターの萩原暁さんに「売野さんもここに所属したら?」と勧められて、「はい、お願いします」と入ることになったんだけど、これが良かったんですよ。ここにいたのが芹澤廣明さん。

 ――これまた後に「少女A」やチェッカーズの「涙のリクエスト」などで組む作曲家ですね!

 売野氏:あの事務所に入ったのは本当に運が良かったですよ。どこに所属しようかと自分で探したんじゃなく、導かれるように入って、それがさまざまな大きな仕事につながったわけですから。僕は基本的に自分から決定しないんです。流され人生。意志が人の半分ぐらいしかない(笑い)。

 ――一方で「運命に対する勘の良さ」が利いたんですね。そして1982年7月に「少女A」が発売され大ヒット。コピーライターより作詞家、となったのはこのころですか

 売野氏:「少女A」がヒットして、僕は「作詞家でやっていける」と思ったけど、父から「一曲ヒットしたぐらいで一生やっていけると思うな。会社辞めようとか浅はかな考えを持つな」とクギを刺されましてね。調子に乗る性格だと分かってて言ってくれたんでしょう。それから1年はコピーの仕事をやりながら雑誌と作詞もやってたから、大変でした。

 ――ヒット曲が出て仕事の依頼は

 売野氏:思ったほど来なかったかな。年内はCBS・ソニーの酒井政利さんから「沖田浩之のアルバムを長戸大幸さんと全曲やってほしい」と言われたのと、東芝EMIぐらい。あとライジングプロダクションを立ち上げる前の平哲夫さんが会いに来てくれました。実際に仕事をしたのは4年後の1986年です。

 ――忙しくなったのは

 売野氏:1983年からですね。河合奈保子の「エスカレーション」(6月)、稲垣潤一の「夏のクラクション」(7月)が出たあたりから。84年1月にチェッカーズの「涙のリクエスト」が出るんだけど、その前に阿久悠さんの別荘近くのゴルフ場で、大変な目に遭ったんです。(続く)

★プロフィル=うりの・まさお 1951年生まれ。栃木県出身。上智大学文学部英文学科卒業後、コピーライター、ファッション誌副編集長を経て作詞家に。82年に中森明菜の「少女A」が大ヒット。チェッカーズ、郷ひろみ、矢沢永吉、SMAPなど数々のアーティストに作品を提供。映画・演劇の脚本・監督・プロデュースも手掛ける。著書に「砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々」。ロシア出身の美貌のデュオ「Max Lux」をプロデュース。