二度と女優復帰はできないと思いながらタイへ

2013年01月16日 08時00分

【高橋惠子 芸能生活42年回顧録「女優物語」(25)】

 

 昭和54(1979)年の初夏、私は当時の所属事務所に「復帰させてください」と連絡し、女優復帰の意思を伝えました。休業してからおよそ2年の歳月が経過していました。予定されていたすべての仕事をキャンセルしたうえでの休業に加え、突然の復帰志願…。自分でもあまりにも身勝手な行動であることは理解していたつもりです。

 ですが、この時点では「“わがまま女優”のレッテルを貼られても仕方ない。それよりも、もう一度お芝居がしたい」という思いの方がはるかに勝っていました。もちろん、関係各方面に多大な迷惑をかけた事実がある以上、すぐに「関根恵子を使いたい」と言ってくれる関係者がいるとは考えていません。いくら自分で「復帰したい」と切望しても、誰も起用してくれなければ女優という仕事は成立しない——。

 そのことは十二分に理解していましたが、「もう一度お芝居をしたい」気持ちの方が強かったのです。普通の事務所ならこんな身勝手な希望を受け入れてはくれなかったでしょう。ですが、この当時の私のマネジャーが“芸能界での母”のような存在だったことが幸いしました。私の言い分にじっくり耳を傾けてくれたうえで、舞台での復帰を決めてくれたのです。

 その舞台が「ドラキュラ」でした。マネジャーは「映画やテレビより、まず舞台をやってみましょう。舞台は映像と違ってあなたのファンが来るわけだから」と説明。確かにその通りです。私はドラキュラ伯爵の毒牙にかかり吸血鬼にされてしまうルーシー役。初日も7月21日に決まりました。

 本当に久しぶりのお芝居です。場所は渋谷の西武劇場(現PARCO劇場)で、7月の上旬から稽古が始まりました。最初は戸惑いながら演じていましたが、稽古が進んでいくと共演の方々との呼吸も合ってきます。それに自分自身で言い出した復帰ですから、責任は重大。セリフをつかえてしまったり、呼吸が合わないなどというぶざまな姿を見せるわけにはいきません。私は必死でした。

 ところが…。お芝居のカンを少しずつ取り戻してくると、今度は演技に対して恐怖を感じるようになったのです。今でもうまく表現できないのですが、とにかくとても不安定な心理状態だった、というしかありません。

 どうしよう——。自分自身で復帰を願い出ていながら、初日を目前に控えて演技が怖くなったとは決して言えません。

 そのとき、とっさに頭に浮かんだのは、約2年間の休業期間中に熱中した詩人・金子光晴さん(故人)の著作集でした。なかでも特にアジア紀行の様子を描いた「マレー蘭印紀行」です。岐阜県の山村で読んで以来、「いつか私もアジア旅行をしたい」と思っていたのです。翌日が初日の7月20日、私は芝居から逃げるように大阪空港からタイへと旅立ちました。もう二度と女優復帰はできない、と思いながら…。