1950年代のロカビリーブームを「ロカビリー三人男」としてけん引し、その後、作曲家として五木ひろし(69)の「よこはま・たそがれ」など数多くのヒット曲、歌手を生み出した平尾昌晃さんが21日、肺炎のため79歳で死去した衝撃がいまも芸能界に広がっている。若手に優しかった平尾さんの周りには慕う歌手や関係者、しかも美女ばかりが集まった。いつまでも若々しかった“音楽界の巨星”の秘話を公開する。

 平尾さんは68年に肺結核で片肺を切除して以来、肺の疾患を抱えていたが、2015年に肺がんを患い、闘病生活を送った。13日に体調を崩し、都内の病院で肺炎の疑いと診断され入院した。

「食欲もあり、ウィンブルドンテニスをテレビ観戦したり、元気だった」(関係者)というが、21日夜、肺炎の症状が悪化し、容体が急変。家族やスタッフに見守られ、亡くなった。葬儀・告別式は近親者で行い、後日、お別れの会が開かれる予定だという。

 58年に歌手デビューした平尾さんは同年に始まった「日劇ウエスタンカーニバル」で山下敬二郎さん(享年71)、ミッキー・カーチス(78)と「ロカビリー三人男」としてブームを巻き起こした。その後は作曲家として「瀬戸の花嫁」(小柳ルミ子)などのヒット曲を連発。78年には門下生の畑中葉子(58)と自らデュエットした「カナダからの手紙」をヒットさせた。

 最近もバラエティー番組にも物まねの審査員などとして積極的に出演し、NHK紅白歌合戦のフィナーレの「蛍の光」の指揮は06年から務めていた。 

「主催のチャリティーゴルフコンペは総計3億円以上の寄付金を集める規模に育て、NHKの『レッツゴーヤング』の司会や俳優も務め、精力的でした。若い女性が好きで、それが若さのエキスになっていたと思いますよ」とは音楽関係者。

 プライベートでは年の差婚を2度経験。34歳だった72年に現役女子大生と16歳差で結婚し、長男をもうけた。その後、21歳年下のOさんとの関係が発覚した。

「優秀な歌手を輩出するために開設した『平尾昌晃ミュージックスクール』の生徒は松田聖子や故川島なお美さんなど、かわいい女性ばかりでした。Oさんはその1期生で、平尾さんの“秘蔵っ子”といわれた」(レコード関係者)

 Oさんは19歳で歌手デビュー後、平尾さんとの関係が発覚。妻は子供を抱えて家を出た。その後、離婚と慰謝料を要求し“離婚トラブル”に発展した。

「泥沼化して離婚調停になり、慰謝料が1億5000万円から1600万円に引き下げられて離婚が成立した。その後、Oさんと再婚。2人の子供が生まれましたが、Oさんとも離婚しました」(元女性誌記者)

 Oさんとの間に生まれたのが息子で歌手の平尾勇気(36)だ。23日、本紙の取材に応じた勇気は金髪に赤いピアス、スーツ姿で時折、言葉に詰まりながらこう語った。

「昨夜、穏やかな顔で眠っている父のそばで一緒に寝ました。本当に悲しい、早すぎるなっていうか、眠っているようで。僕は地方へ営業に出ていたのでみとることはできませんでした。僕が音楽の道に進んだのは父の影響が大きい。今は言葉が見つからないし、起きてくるんじゃないかなと思います」

 前出の畑中も同日、都内で取材に応じ「『カナダからの手紙』でご一緒させていただいて運命的なものを感じていた。16歳で父を亡くし、父のように感じていたので残念です」と涙を浮かべて語った。

「歌詞に『あなたの居ないひとり旅です』という歌詞があるんですけど、現実になってしまった。いろいろ年齢も重ねてきましたし、本当に大切に歌わせていただきたいと思います」

 歌とゴルフをこよなく愛し、若い女性が好きだった平尾さんはいつまでも若々しかった。