胆のうがんと闘い、多臓器不全のため72歳で死去したことが16日に明らかになった俳優・渡瀬恒彦さんは、死去前日の13日まで仕事に意欲を燃やしていた。「仁義なき戦い」(1973年)に代表されるヤクザ映画では革命的な極道の像を模索。テレビ視聴者を引きつけた一連の刑事ドラマシリーズでは、最後まで出演をあきらめなかった「警視庁捜査一課9係」(テレビ朝日系)のファンの間で“9係ショック”が生じている。

 一昨年の秋ごろに胆のうがんが判明し、闘病生活を送りながらドラマに出演していた渡瀬さん。2月半ばごろ、左肺に気胸を発症して入院。今月に敗血症を併発し、帰らぬ人となった。

 所属事務所関係者によると、気胸はかなり回復し、13日には新シリーズが4月に始まる「警視庁捜査一課9係」の打ち合わせをしていたという。同関係者は「13日に会ったとき、本人は撮影に戻るつもりでいました。好きな作品の一つでしたから。それが14日夜に容体が急変した」。最後は夫人と息子、娘の3人にみとられ天国へ旅立った。

 兄の渡哲也(75)は16日に発表した直筆コメントで、がんはステージ4で余命は1年と当初から告知されており、この日が来ることを覚悟していたと告白。「幼少期より今日に到るまでの二人の生い立や、同じ俳優として過した日々が思い返されその情景が断ち切れず、辛さが募るばかりです」と兄弟で歩んだ俳優人生を振り返った。

 多くの俳優から愛された渡瀬さんは、若かりしころから“男気”を見せていた。73年に主演した映画「鉄砲玉の美学」もその一つ。前衛的な作品群で知られるATG(日本アート・シアター・ギルド)の映画として評判を呼んだ。

「当時、中島貞夫監督が従来にないヤクザ映画を作りたがっていた。これまでは義理と人情ばかりの紋切り型のヤクザ像ばかりだったけれど、そんなかっこいいヤクザではなく、かっこ悪いヤクザを描こうとした。そんなとき、渡瀬さんが『オレがやるよ。俺じゃないと絶対ダメだろう。オレを使って!』とものすごく売り込んできた。それで採用されたんです」(映画関係者)

 低予算だったため、ギャラもままならなかったが、渡瀬さんは「いらないから」と言ったどころか、自分の車まで撮影に提供したという。

「いろいろなヤクザをやりたかったんだと思います。渡瀬さんには、そういう新しいところに切り込もうとする気構えがある。ギャラがどうこうとか細かいことはどうでもいい。とにかく、いい作品をつくりたかった。誰も異議を唱えられなかったんです」(同関係者)

 まさにヤクザ映画に革命を起こそうとしていた。

 晩年は映画の出演ペースが落ちる一方、ドラマは「9係」のほか「十津川警部シリーズ」や「おみやさん」など刑事ドラマのシリーズ作の出演が続いた。十津川警部は昨年に無念の降板が明らかになったが、12年目を迎えた「9係」は「『やらせてください、やりたいんです!』と言いたい作品」(番組ホームページから)と強い愛着を示していた。

 ネット上には、同番組の「加納倫太郎係長」に扮する渡瀬さんの訃報を受けて「楽しみにしていたからショック」「係長はどうなるんだ?」「どんな気持ちで見ればいいのか」といったツイートが寄せられている。番組は予定通り放送され、同じテレビ朝日のドラマで撮影済みの「そして誰もいなくなった」(25、26日」もオンエアされる。

 遺体は都内の病院から自宅へ戻った。葬儀・告別式は親族のみで営まれる。喪主は再婚した妻のい保(いほ)さんが務める。「お別れの会」は後日開かれる予定。