結婚後も続いた優作さんとの交遊

2012年12月30日 10時00分

【高橋惠子 芸能生活42年回顧録「女優物語」(19)】

 

 昭和49(1974)年3月、“伝説の俳優”松田優作さん(故人)の劇団「F企画」の旗揚げ公演「みやもと武蔵」が上演されました。当時、優作さんは「太陽にほえろ!」(日本テレビ系、72〜86年)のジーパン刑事役で人気沸騰中。ジーパン刑事の恋人・内田伸子役で共演していた私も優作さんから「武蔵の恋人・お通役で出てほしい」と頼まれ、ノーギャラで参加したのです。

 私にとっては、これが初舞台。期待と不安が相半ばする中での出演でしたが、手応えは確かにありました。それまで経験したことのない熱気が客席から直接伝わってくるのです。舞台では先輩の優作さんから「舞台はいいぞ。とにかくダイレクトだから」と聞かされてはいましたが、本当にその通りでした。


 この舞台出演がきっかけで「太陽——」降板以降も優作さんとの交友は続くことになります。この年の8月末、優作さん演じるジーパン刑事は「なんじゃあ!こりゃあ!!」の名ゼリフを残して殉職。ジーパン刑事の婚約者となっていた私=伸子も警察官を退職します。優作さんと私は揃って「太陽——」を降板したわけですが、本当の2人の交流はそれからでした。

 あれは確か、この年の年末だったと思います。優作さんが「アニキ」と慕っていた原田芳雄さん(故人)のお宅で行われる恒例の餠つき大会に、優作さんに誘われ参加。このときも驚かされました。原田さんの家には入りきらないほどの大人数が集まっていたからです。ざっと100人以上はいたと思います。優作さんから聞いてはいたのですが、想像以上の人数にあっけに取られてしまったことは忘れられません。

 また、優作さんの代表作のひとつ「探偵物語」(日本テレビ系、79年9月〜80年4月)放送中のころのことです。優作さんは音楽活動にも積極的で、都内や横浜でライブを行っていました。私も「ライブに来ないか」とたびたび誘われ、何度も見にいった記憶があります。演技と同じくらいの情熱で、音楽活動に取り組んでいた優作さんの姿は新鮮でした。

 こうした交友関係はお互いの結婚後も続きました。偶然にも優作さんの奥さんの美由紀さんが長男・龍平君を妊娠した時期と私が長男を妊娠した時期が一緒だったため、その後は優作さんよりも美由紀さんと親しくなります。時間があるときには、お互いの自宅を行き来する関係も継続。長男を出産後には、私の夫・高橋伴明と優作さんが映画について熱く議論し、私と美由紀さんは子育て談議に花を咲かせる——。

 男同士、女同士で分かり合える理想的な交友関係だったのですが…。優作さん一家との家族ぐるみの交友は89年、優作さんの早すぎる死(享年40)で終わってしまいました。それは私と知り合ってから16年後、優作さんのことを本当の弟のようにかわいがっていた「太陽——」のボスこと石原裕次郎さんが亡くなってから2年後のことでした。