「おヒョイさん」の愛称で親しまれ、司会や俳優、コメディアン、ダンサー、パントマイムや振付師などマルチな才能で活躍した藤村俊二さんが、1月25日に心筋梗塞による心不全のため、死去していたことが1日、分かった。82歳だった。藤村さんは2009年6月から7月まで本紙で「おヒョイさんのそンなワケで…。」を連載した。複数の大病を患いながらもひた隠しにし、それでもオシャレ道を貫きながら、ユニークでおバカな企画をこなした“おヒョイ伝説”をいま一度公開する。

 連載中は、ダンサー、パントマイム、振付師、コメディアン、俳優、タレント、ナレーター、とにかく多才だった半生の秘話を、ひょうひょうと明かしてくれた。

 27歳で振付師となり1967年、バラエティー番組「ドリフターズドン!」(TBS系)でザ・ドリフターズと出会った。振付師でありながら、山賊コントではメンバーの最後に海賊姿で登場し「なんで、山に海賊がいるんだ」「僕、泳げないんです」とコメディアンデビューも果たした。

 その後番組「8時だョ!全員集合」のオープニングで出演者が法被を着て踊る「エンヤーコラヤ」の振り付けを考案したのも藤村さんだった。

「加藤茶さん、志村けんさんが後にやったヒゲダンスのきっかけも僕。当時、日本中が熱狂したファイティング原田さんのボクシングにひっかけたコントをやった。ラウンドの間にコーナーに戻ったボクサーとセコンドの息が合わず、マッサージや水の補給で逆にボクサーが消耗してしまう。そこで使ったのがあの付けヒゲだったんです」

 大橋巨泉さんと前田武彦さんによる「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」(70年前後)にレギュラー出演して注目を高めた藤村さん。ずっと公表しなかった胃がんなどに対する闘病も笑顔で語った。

「50代で肺気胸になって片方の肺を取り、94年の舞台出演では、どうやって胃がんがバレないようにしようかとばかり考えていた。99年には大動脈瘤の手術から退院した翌日に消防署で一日署長の仕事があって『放水!』と号令をかけたときにものすごく痛かったの。それでも病気のことは公表したくなかった。僕は弱音を吐いたり、みっともない姿を見せるのはよしとしない。すべて良くなって『実は胃を取っちゃった』って後で言うことにしてます。『不死身ら(フジムラ)』ってね」

 モットーは「好きなことをやる」だった。連載の打ち合わせをしたのは96年に東京・南青山に藤村さんが1億円をかけてオープンしたワインバー「O,hyoi’s(オヒョイズ)」の個室。いつも、白系のサマージャケットに白いシャツを第2ボタンまで開けたダンディーな装いでにこやかに迎えてくれた。

 テレビ東京系でシリーズ化された旅番組「オヒョイさんの漫遊記」シリーズではおバカな企画をやり尽くした。

「ハワイで本物のパナマ帽を50万円で買ったから、本場のキューバでかぶりたいと、麻のスーツを50万円で作って、苦労して現地に着いたら、そんな格好の人は誰もいないの。気温40度だからみんなTシャツに短パン。暑いったらありゃしない」

 ポルトガルの島の洞窟にグランドピアノを入れてピアニストに弾いてもらい、トルコの円形劇場跡では線香花火をやり、水の都ベネチアでは金魚すくいもやった。

「あこがれの人」をこの連載で初めて公言した。

「白洲次郎さん。農業をしながらポルシェに乗るようなカントリージェントルマン。GHQに英国仕込みの英語で渡り合い、マッカーサー司令官を怒鳴りつけたことでも知られますが、日本人が米国人にへいこらしてた時代にGHQから『どうして英語がうまいんだ』と聞かれ『あんたもちゃんと勉強すれば(米国英語ではなく、英国英語を)しゃべれるようになる』と言った人」

 オシャレで多才で、ウイットに富んだ発想の藤村さんらしかった。東宝芸能学校舞踏科時代、ステージからいつの間にかヒョイといなくなったことから付いたアダ名のように、軽やかに旅立ったようだ。