「奔放な女優・関根恵子」がひとり歩き

2012年12月03日 10時00分

【高橋惠子 芸能生活42年回顧録「女優物語」(7)】

 

 昭和45(1970)年11月に主演2作目の映画「おさな妻」が公開されると、「性についても自由奔放な前代未聞の15歳」というイメージは完全に定着してしまいます。私自身も「出演作品のイメージ通りに振る舞わなきゃ」という誤った使命感のようなものを持っていて、本来の自分とはかなり違う言動を取っていたのです。
 
 この当時としてはスキャンダラスな作品内容と私のイメージが功を奏したのでしょう。デビュー作「高校生ブルース」と「おさな妻」は連続ヒットしたといいます。私の所属していた大映はこの結果に大満足で、以降は10代の少女たちの性をリアルに描く“レモンセックス路線”をひた走ります。

 私の主演作のタイトルだけ見ても「新・高校生ブルース」「高校生心中 純愛」「樹氷悲歌」…何とも思わせぶりなものがズラリと並んでいました。しかも、デビュー作から主演5作目の「樹氷悲歌」まで、たった10か月間で撮影していたのです。あまりにも忙しすぎて、このころのプライベートの記憶はほとんどありません。

 さらに、当時は宣伝部に所属していた関係で、映画とは無関係の仕事も殺到しました。というのも、このころは男性週刊誌や月刊誌が部数を伸ばしていて、カラーグラビアを飾るモデルが必要とされていたからです。

 映画では物おじせずにヌードを披露していて、スタイルもそこそこ。何しろグラドルという概念がない時代でしたから、16歳の私がちょうどよかったのでしょう。私も最初のうちは映画とはまたひと味違うグラビア撮影を楽しんでいました。

 ですが、それもスケジュールに忙殺されるまでのこと。このころの私がどれほど忙しかったかといえば…。昭和46年11月に大映が倒産するまでに、たった3日間しか休みをもらえなかった…ということでも分かっていただけると思います。

 同世代と比べるといくら大人びて見えるとはいえ、私はまだ16歳の少女。「樹氷悲歌」のクランクアップを迎えたときには、限界に達していたのです。多忙を極める毎日と、素の自分とは違う「奔放な女優・関根恵子」がひとり歩きしてしまい、そのイメージに従わなくてはならない状況…。

「もう、これ以上は続けられない。女優も辞めよう」。後に何度か女優を辞めようと考えたことがありましたが、本気で女優を辞めようと決意したのはこのときが初めてでした。普段は淡々としているのに、いろいろな思いをため込んでしまい、しばらくしたら大爆発させてしまう——。

 今にして思うと、私の悪いクセなのかもしれません。ですが、この時点ではそんなことさえ少しも考えられずに、撮影所の所長室に向かいました。それから数分後、所長と対面した私は「私、女優を辞めます」と切り出したのです。