小説、映画「火垂(ほた)るの墓」などで知られ、「焼け跡闇市派」を自称していた作家で元参院議員の野坂昭如(のさか・あきゆき)さんが9日午後10時37分ごろ、心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。85歳だった。小説家だけでなく、コント作家、CMソング作詞家、歌手、タレントなどいくつもの顔を持っていたが、2003年に脳梗塞で倒れて以降は自宅で闘病生活を送った。破天荒な言動と無類の酒好きで知られたスター作家の秘話とは――。

 野坂さんの訃報を受け、10日、杉並区内の自宅前には報道陣が集まった。次女の元宝塚女優、亀井亜未さん(43)は「暴れん坊の父でしたので、最期は安らかに迎えられて幸せです」と話した。

 約30年前にフジテレビ系のワイドショー「おはよう!ナイスデイ」で共演していた芸能リポーターで東京・目黒区議会議員の須藤甚一郎氏(76)は「いつも朝、スタジオで野坂さんはビールの小瓶を水代わりに飲んでいたんだけど、ある時は2リットル缶のビールを抱えて飲んでいた。野坂さんは『小っちぇのが売り切れてた』とこともなげに言うんだけど、みんな驚いていたね」と語る。

 このころ、野坂さんは50代半ば。長年の痛飲がたたり肝臓を患っていた。「『ボージョレ・ヌーボーがあるからウチで打ち合わせしよう』と野坂さんに呼ばれて行くと、奥さんはプロデューサーとボクの2人分のグラスしか出さない。『ダメよ』とにらんだ奥さんが出ていくと『ちょっと借りるぞ』とワインをあおって『オレは“アル中”じゃないんだ! アルコール依存症なんだ』と、まだそんな言葉がない時代に力説していましたね」

 少年のような一面も。「野坂さんの友人の彫刻家が、秘宝館に納品する作品の完成間近だからと見に行ったんだ。顔は吉永小百合で、体は任侠映画の女勝負師みたいにヒザを立てているからアソコが丸見え。野坂さんはしゃがみ込んで見て『これは本物だ! 俺はなぜか知っているんだ』と大興奮だった」という。

 ある時は「今のリポーターは物足りん! 俺が見本を見せてやる!」とリポーター転身も宣言。

「ヤクザ風の風貌で人気を集めた塾講師“やっちゃん先生”の記者会見に息巻いて来たんだけど、向こうに話させずに『そもそもやっちゃんはヤクザだろう』なんて因縁をつけて論争に。それ以来会見にリポーターとして来ることはなかったなぁ」(同)

 かつて中央公論社の編集者として野坂さんの処女作「エロ事師たち」を手がけたジャーナリストの水口義朗氏(81)によると、野坂さんは03年に脳梗塞で倒れて以降、右手が不自由で口も思うように動かせなかったため、妻の暘子(ようこ)さん(74)が聞き書きをして週刊誌や新聞の連載原稿を執筆した。

 無類の酒好きだった野坂さんだが「酔っ払っていないと借りてきた猫みたい。酒を飲まないと照れ屋で人前には出られなかった」(水口氏)。
 原稿の催促をされぬよう、自宅のインターホンをはぎ取ってしまうなど、編集者泣かせな一面も。

 亡くなる当日の午後4時ごろ、雑誌「新潮45」で担当する連載原稿を新潮社に寄せ「この国に、戦前がひたひたと迫っている」と警告した。
 少年時代に戦争で飢えを体験し、食に関してはつましく「料亭に行っても『ラーメン食おう』といって、すぐに出てしまう。正直、私としてはもったいない思いを何回もしました」(水口氏)。

 近隣住民によれば、かつては野坂さんが着流し姿の和装で近所を出歩く様子が目撃されたが、03年以降は、それもほとんどなくなっていた。
 別の近隣の小学生は「(野坂さんの)顔は知らないけど、あそこが『火垂るの墓』の人の家だというのは知っていた」と話し、アニメ化された直木賞受賞作が幅広い世代から支持を受けていたことをうかがわせた。

 通夜と密葬の儀は親族のみで執り行われ、葬儀、告別式は19日に東京・青山葬儀所で行われる。

☆のさか・あきゆき=1930年10月10日生まれ。神奈川県鎌倉市出身。45年、少年時代を過ごした神戸で空襲に遭い、養父を失う。50年に早大第一文学部仏文科に入学、7年間在籍して中退。在学中からアルバイトでさまざまな職業を遍歴し、CMソングの作詞やテレビ、コントの台本を手がけた。63年に「おもちゃのチャチャチャ」で日本レコード大賞童謡賞を受賞し、「エロ事師(ごとし)たち」で本格的に作家デビュー。68年には、米軍による占領を題材にした「アメリカひじき」と、戦災の体験を基に書いた「火垂るの墓」で67年度下半期の直木賞に選ばれた。70年代に「黒の舟唄」がヒットするなど歌手としても活躍。72年には「面白半分」の編集長として掲載した「四畳半襖の下張」がわいせつ事件化され、80年に最高裁で罰金刑が確定した。