萩原流行(はぎわら・ながれ、本名・萩原光男)さんが22日に死亡したバイク事故で、警視庁は23日萩原さんのバイクが転倒後、同庁のワンボックスカーの護送車に接触していたことを明らかにした。護送車は接触の直前に車線変更しており、萩原さんがよけようとして事故になった可能性もある。独特のキャラクターにテンガロンハットで人気だった役者の悲劇で、意外な“関与者”が浮かび上がった。

「何だよ! 知らねぇよ!」

 ちょっぴり荒っぽいこの口グセが売りのひょうきんなタレントで、個性派俳優でもあった萩原さんが、まさかの事故死だ。

 事故は22日午後6時すぎ、東京・杉並区高円寺南の路上で発生。萩原さんは愛車の大型バイクハーレーダビッドソンで走行中に警視庁の護送車と接触。転倒して後続車両にひかれ、救急搬送後に死亡が確認された。62歳だった。同庁交通捜査課は自動車過失運転処罰法違反(過失致死)の疑いで、護送車を運転していた高井戸署の男性警部補(55)らから事情を聞き、詳しい事故の状況を調べている。

 雨は降っていたが、見通しのいい直線道路で事故は起きた。警視庁によると、青梅街道の新宿方面上り車線の事故現場は片側3車線で、一番左側の車線を走っていた護送車が路上駐車の車をよけるため車線を変えたところ、中央車線を走っていた萩原さんのバイクが転倒し、護送車の前輪付近に接触した。その後、萩原さんは一番右側の追い越し車線に投げ出され、後続の会社役員の男性(59)の乗用車にひかれた。

 男性は「バイクが転ぶ音がして、タイヤで何かをひいた感触があった」と話している。事故を目撃した男性から110番通報があり、警察が駆けつけたときはすでに意識がなかったという。

 護送車は留置中の容疑者の治療のため、高井戸署から病院に向かっていたところだった。護送車には他の署員2人も乗っていた。事故後、護送車を運転していた警部補が現場から119番した。萩原さんは搬送先の病院で22日午後7時26分、心房破裂で死亡が確認された。前出の運転手は「(萩原さんの体に)乗り上げた」とも供述していた。

 当時の状況について、萩原さんの右後ろを車で走っていた目撃者は「バイクがあり得ないくらい近い距離で車を追い抜こうとして、ジグザグ運転のようになって、火花が出た。体が右車線に投げ出されるようにして倒れた」と証言する。

 これに警視庁の車両が絡んでいたことは、有名俳優の死にとどまらず、さらなる衝撃を呼ぶ。護送車の運転次第によっては、重大な過失に問われる可能性があるからだ。しかも同庁は22日に事故の状況を説明した際、「事実確認中だったため」として、車線変更した車が護送車だったことを明らかにしていなかった。本紙が同日取材した際にも同じ理由で「お答えできない」と明言を避けたが、不都合な情報の発表を遅らせたとのそしりも免れない。

 事実確認を行う実況見分は同日午後9時過ぎに始まり、一時は現場一帯を通行止めにするなどして23日午前0時半ごろまで続いた。捜査員は最大50人ほどに膨れ上がり、よほど大規模な事故でもない限り使わないステレオカメラ(立体写真機)まで持ち出して入念に調べた。

 報道陣や野次馬も100人近くが歩道から現場を見守った。「この規模の事故でこんな大がかりな実況見分をするなんて…」との驚きの声が取材者から上がり、近隣住民も「鑑識の車両も見かけたけど、ひき逃げでもないのに随分大げさな実況見分だなと驚いた」と話していた。

 同程度の事故では行わないような綿密な実況見分。これが護送車の運転手という“身内”を守るために行ったとなれば、ますます警察は批判にさらされることは避けられない。

☆はぎわら・ながれ=1953年4月8日生まれ。東京都出身。世田谷学園高を卒業後、72年に劇団「ザ・スーパー・カムパニイ」で初舞台を踏む。7年在籍後にフリーとなり、82年に「劇団つかこうへい事務所」に入団。舞台に出演する一方、同年の映画「蒲田行進曲」で注目される。NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(87年)、「スケバン刑事Ⅲ」(86〜87年)、「教師びんびん物語」(88年)などテレビドラマ出演も多数。映画「マークスの山」(95年)、ビデオシネマ「修羅がゆく」シリーズ(95〜2000年)でも存在感を示した。悪役や暴力団組員など、アクの強い名脇役として活躍。08年には「萩原流行アクターズスタジオ」を開設。舞台女優だったまゆ美夫人に続いて1991年ごろからうつ病を患っていたことを告白。09年に夫婦共著「Wうつ」を刊行した。