菅原文太さん 俳優引退後は日本各地で“仁義ある戦い”に奔走

2014年12月03日 07時15分

保坂氏(右)の出版記念パーティーに駆け付けた文太さん(2012年11月)

 映画「仁義なき戦い」「トラック野郎」の両シリーズなどでアウトローを演じ、世の男たちから「文太兄い」と慕われた菅原文太さんが11月28日午前3時、転移性肝がんによる肝不全のため、都内の病院で死去していたことが1日、明らかになった。81歳だった。俳優業から退いた後も“政界”を舞台に大暴れ。脱原発や戦争反対の“世直し運動”に奔走し、2日公示された衆院選(14日投開票)でも文太さんをシンボルにした新党結成プランがあった。豪快な役柄で人気を博した文太さん。素顔は非常に繊細な読書家だったなど、他では読めない秘話の数々を一挙公開――。

 2012年に俳優引退を表明した文太さんは同年、「いのちの党」を立ち上げた。前年に東日本大震災で文太さんの故郷の宮城・仙台が被災し、津波や福島原発事故で住民が仮設住宅暮らしを余儀なくされた。文太さんは支援活動に励んでいたが、1年、2年たっても一向に進まない復興の現状に政治への義憤に駆られたのだ。

 結党直後に本紙取材に応じた文太さんは「今、命が鳥の羽毛のように軽く扱われている。子供たちが虐待され、日本では年に3万人を超える自殺者が出ている。本当は国が手を差し伸べないといけないが、見向きもされていない。昭和30~40年代から作り上げてきた国の形をここで1回、なにもかも壊さないとダメだよ。その働きかけをしたい。オレも80歳で静かにしていなさいといわれるが、短気な性分で、ひと言で言えば素人の乱だよ」と激白していた。

 結党後の文太さんは、宣言通りに日本各地を駆けずり回った。国政選挙では、脱原発や戦争反対を訴える候補のもとに手弁当で駆け付けた。07年にぼうこうがんを患った肉体にムチ打って、街頭演説に立ち続ける。「昔は好々爺といわれるじいさんがいたが、今はいなくなってしまった。オレの話を聴いてくれる人が一人でもいるなら少しは役に立ちたい」とマイクを握り続けた。

 演説では「プロではないから」とはにかんでいたが、いつもユーモアに富んだ話で聴衆を魅了した。

 お気に入りにしていたのは「仁義なき戦い」に引っ掛けた話だった。今年2月の都知事選では細川護熙元首相(76)の応援で、「『仁義なき戦い』は深作欣二監督と2人で作った財産。それを敵(相手候補)が、“仁義なき戦い”を始めた。許すわけにはいかない。細川組は“仁義ある戦い”をしているんだ」と盛り上げた。
 亡くなる約4週間前の11月1日には沖縄県知事選(同16日)で翁長雄志氏(64)の応援に駆け付け、「『仁義なき戦い』の“山守”(組長)を覚えているか? 映画の最後に『山守さん、弾はまだ一発残っとるがよ』というセリフがあるけど『仲井真さん(弘多県知事)、弾はまだ一発残っとるがよ』とぶつけてやりたい」と名ゼリフに引っ掛け、仲井真陣営に強烈なパンチを放った。そして、「絶対に戦争をするな」と熱いゲキを飛ばしていた。

 安倍政権の右傾化や自民党1強を憂い、「アベノミクスはいいと思うかい。口ばっかり達者で、実のある政治をやってくれてないじゃないか」と怒りをぶちまけていた文太さんを代表に据える新党構想も持ち上がっていた。

「文太さんは、『もういよいよ自分たちがやるしかない』と危機感をあらわにしていた。国会議員を加えた国政政党の新党を作るしかないと周囲が動いていた矢先に文太さんが体調を崩された」(永田町関係者)

 文太さんと親交の深かった東京・世田谷区の保坂展人区長(59)は「文太さんは、小さいころに空襲でメラメラと街が燃えるのを見たり、徴兵された周りの若者が帰ってこなかった体験が原点にあって、戦争は絶対に繰り返してはいけないという思いが強かった。原発事故が起きたにもかかわらず原発再稼働や再依存にも怒りと嘆きがあって、自身は80歳を超えて、先頭切って走る立場じゃないが、黙っていることができないという方だった」と振り返る。

“文太新党”は幻となってしまったが、保坂氏は「いのちの党の結成総会時にいろんな分野の方が集まって、なにかやらなきゃいけないと感じていた。文太さんの目的とするところは残っているし、私も含めて、バトンを渡されたと思っている」。文太さんの熱い思いは、しっかりと託されているようだ。

☆すがわら・ぶんたー本名同じ。1933年8月16日、宮城・仙台市生まれ。仙台一高から早大進学も2年で中退。ファッションモデルを経て58年、新東宝「白線秘密地帯」で本格映画デビュー。代表作は映画「仁義なき戦い」「トラック野郎」シリーズなど。2012年、俳優業引退を表明した。